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手で造られたものは呪われる(1)(第二説教集2章2部試訳1) #82

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第2部の試訳は6回にわけてお届けします。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:


第1部の振り返りと第2部のねらい

 愛すべき者たちよ、この説教では偶像など神に似せて象ったものに対する、また偶像崇拝に対する、神の御言葉による教えについてお話しています。旧約と新約の聖書から引用してお話をしていますが、みなさんはその中で使徒たちはもとより救い主キリストご自身の逸話を聞きました。救い主キリストは人間による証言を必要もされず求められもしません。キリストの永遠の真理が持つ確かさによってひとたび固められたものは、例えて言えば、闇を薄めて光を濃くしようとするとして、真昼の眩しい太陽が仄かな蝋燭のあかりを必要とはしないのと同じく、人間が作ったものによってその確かさが強められる必要などありません。とはいえみなさんがより理解を深めるために、第一部の冒頭でお約束したとおり、この第二部では、旧約と新約の聖書で偶像崇拝が禁じられていることにかかわって古代の教父や学識ある博士たちが述べたことについてお話します。極めて腐敗のなく純粋な初期の教会にあった真理や教義をお話しましょう。ここでのお話は教父や博士たちの著作に基づいての、あるいは教会の記録に基づいてのものとなります。

テルトゥリアヌス

 古代の文筆家であり教会の博士であるテルトゥリアヌスは、キリスト生誕からおよそ百六十年の世に生きました。自身の著作のいたるところで、特に『王冠の作法』に反駁するために書いた著作のなかと『兵士の冠について』と題する短い論文のなかで偶像を鋭くかつ徹底的に批判しています。『ヨハネの手紙一』のなかにある言葉をみましょう。第五章で聖ヨハネは偶像や彫像の問題について深く考えてこのように言っています。「子たちよ、偶像から身を守りなさい(一ヨハ5・21、一コリ10・7)。」聖ヨハネはここで、偶像崇拝からというよりも、偶像そのものから、すなわち象って造られたものそのものから身を遠ざけるようにと言っています。生ける神の似姿が命のない偶像に象られるなど意味のないことです。みなさんは偶像を教会堂や神殿に置き、さらにはそれらを神の祭壇より高いところに掲げ、まるでそれらを崇めたりそれらに誉れを向けたりしている者たちが聖ヨハネやテルトゥリアヌスの言葉を踏まえているなどとは思わないでしょう。偶像を置いてそれを崇めていながら、偶像を遠ざけているということになるのでしょうか。むしろ、そういったものを受けいれて心を委ねているということになるのではないでしょうか。

オリゲネス

 オリゲネスはケルソスに反駁した著作のなかでこのように述べています。「キリスト教徒とユダヤ教徒は『今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい(ヨシュ24・14)』という律法についての言葉を耳にすれば、神殿や祭壇や神の像を忌み嫌うのみならず、ともすれば、不敬をもって自らを汚すくらいならいっそ死を選ぶことでしょう。」また、このすぐあとのところで、「ユダヤ人の間では、偶像を造る人が見捨てられ忘れ去られたのですが、これは自分たちが、分別に欠ける者を神から遠ざけ、さらには自分たちの魂が地上にあるもので満足してしまいかねなくならないようにするためでした。」この著作の別の箇所にはこうも書かれています。「偶像を崇拝するというのは狂っていて気ちがいじみたことであるだけでなく、そもそもあるべきものから目を背けることでもあります。人間は神とそのひとり子を知っていながら、一方で神に似せた偶像に誉れを向けています。しかし、偶像を崇拝することによって神を知ることなど、誰もできようがないのです。」

アタナシウス

 聖アタナシウスは、異教徒に反駁する著作のなかで次のように述べています。「みなさんに望むことですが、はたしてどうすれば神を偶像によって見出すことができるのかを彼らに語ってもらいましょう。ただそういったことが偶を使ってできるとしても、目に見えるあらゆる生き物のなかに神がおられて、神の栄光を確かに現しているのですから、あえて象った形など何の必要もないのです。また、神を偶像によって見出すことができるとするなら、まさにそのもので形を表している生きとし生けるものによって神を見出すことができるというほうがよいと言えないでしょうか。間違いなく神の栄光は命がなく死した像によってではなく、理に適って生きとし生けるものによって現わされることによって明らかにされるべきです。それゆえ、みなさんが偶像を造ったりそれに色を塗ったりして、それによって神を見出そうとするとき、間違いなくみなさんは無価値で愚かなことをしていることになるのです。」この著作の他の箇所では次のように言っています。「偶像を造るということは善からではなく悪から出るものです。悪から出るものはどんなものでも決して善なるものとはされません。まったく邪悪なものとされます。」極めて古い時代に生きた聖にして学識ある主教であり博士である聖アタナシウスは、このように著作の二つのところで、偶像など神に似せて象ったものを邪悪なものとしています。

ラクタンティウス

 ラクタンティウスもまた古い時代に生きた学識ある著述家なのですが、『過ちの起源について』と題する著作のなかで次のように述べています。「神は人間の上におられます。決して人間の下におられるのではありません。最も高いところに求められるべきです。したがって疑いなく、偶像があるところに教えなどないのです。教えは神に適うものであり、天なるものの外に信仰は存在しませんので、偶像には教えなどないということになります。」これはラクタンティウスの言葉です。彼は救い主キリストの生誕から三百年のうちに、つまり、千三百年以上も昔に生きていました。

キュリロス

 アレクサンドリアのキュリロスも古い時代に生きた聖なる博士なのですが、『ヨハネによる福音書』にかかわって次のように述べています。「多くの者が創造主から離れ、似せて象られたものを崇拝している。棒きれに向かって『ああ、父よ』と、また、石に向かって『創造主よ』などと言って恥じる様子もない。多くの者にとって、いや、悲しいことに、ほとんどすべての者が神格や神性というものの栄光を、ろくに考えもしないでさまざまな物に求めてしまっている。」

布を破るエピファニオス

 エピファニオスはキプロスのサラミスの主教で、極めて高位で学識のある人物であり、テオドシウス帝の時代、つまり救い主キリストの生誕からおよそ三百九十年ののちに生きたのですが、エルサレムの大主教であるヨハネ二世に宛てて次のような手紙を書いています。「わたしは祈ろうとしてある教会堂に入った。その教会堂の入り口には色を塗られた麻布が掲げられていて、その布にキリストとおそらくは誰か聖人が描かれていた。おそらくと言っているのはどの聖人が描かれていたのかをよく覚えていないからだ。わたしはキリストの教会に人間の像が掲げられているのをみて、これは聖書の教えに反するものだと思いってその布を引き裂いた。そして教会堂を管理している者に対して、死すべき人間が描かれた布など風に飛ばすか埋めてしまうべきだと話した。」

キリストを描いた絵も偶像である

 エピファニオスは自分が破った布のかわりとして、色を塗っていない別の布を大主教ヨハネ二世に送り、あわせて次のようにしたためています。「願わくは、あの教会堂の者たちが、あの布を破ったわたしが送るこの布を受け取り、今後はわたしたちの宗教に反することなく、色を塗るなどしていない布をキリストの教会に掲げるようであってほしい。あなたの監督の下にある者たちが実直さを捨ててキリストの教会堂に相応しくないことをし、自らに害をもたらす行いをするよりも、この布を大切にすることのほうが善となる。」

ヒエロニムスのエピファニオス礼賛

この書簡は多くの人々に読まれるべきものであり、聖ヒエロニムスがラテン語に翻訳してもいます。聖ヒエロニムスはこの高貴にして学識ある主教エピファニオスに極めて高い尊敬の念を持っており、この書簡を権威あるものとすべくラテン語に翻訳したのです。みなさんは聖ヒエロニムスが別のところで、つまりエルサレムの大主教ヨハネの過ちについて書いたもののなかで、エピファニオスにかかわって次のように述べていることを知っているでしょう。「あなたは教皇エピファニオスに、書簡のなかではっきりと異教徒であると言われています。そのとおり、あなたはエピファニオスより上にはいません。年齢でも学識でも生活における善でも、この世において見えていることすべてについてそうです。」

エピファニオスの気高さ

聖ヒエロニムスはこの書簡のこのあとすぐのところで、エピファニオス主教が極めて大きな尊敬と評価を得ていて、かの迫害者ウァレンス帝でさえ、指一本たりとも触れることがなかったと語っています。異教徒の皇帝でさえもがこの名高い人物に害を加えることを恥と考えていました。『教会史』第九巻の第四十八章には、「エピファニオスは生前に素晴らしいことを行ったので、彼の死後、悪魔は彼の墓から駆逐され、叫び声をあげた」と書かれています。おわかりでしょうか。かなり昔の時代のことですが、聖ヒエロニムスは高貴にして学識のある主教エピファニオスにどれほどの権威をみていたことでしょうか。教会堂という場に密かに忍び込んでくる偶像に対するエピファニオスの言行は記憶に留められるべきです。

エピファニオスの思想

 第一にエピファニオスはキリストの教会でどんなものであれ偶像を置くことがキリスト教の教理にも、また聖書の教えにも反するものであるとしました。第二に彼は形を変えられたり彫刻を施されたり鋳造されたりした偶像のみならず、描かれた像であっても教会にあってはならないものであるとしました。第三に彼はその描かれたものがキリストの像であろうと他の聖人のものであろうと偶像であり、教会にあってはならないものであるとしました。第四に彼はそういったものを教会の外に出すのみならず大いなる憤怒をもってそれを粉々に破り、すべて地中に埋められるべきで、地中で腐らせるのがよいとしました。これはかの名君ヒゼキヤが人々の偶像崇拝をみて、青銅の蛇を粉々に砕いて燃やして灰にした故事にならっています(王下18・4)。

教会堂に偶像はなかった

そしてもうひとつ、エピファニオスは教会には偶像があってはならないと心しておくのが主教の当然の務めであるとしています。神への務めに照らせば、偶像は人々にとって良心が咎めるものであり罪であるからです。彼の書簡を翻訳した聖ヒエロニムスも、またさきほど述べたようにエピファニオスを高く讃えている『教会史』の筆者たちも、さらには当時かもう少し後代に生きた他の信仰が篤く学識のある主教たちも、誰も偶像に関するエピファニオスの考えを否定した著作を出してはいません。救い主キリストが生誕されてのちおよそ四百年の時代に、キリストの教会堂において公的に用いられ受け入れられていた偶像はありませんでした。教会堂は現在と違って腐敗がほとんどなかったどころか、極めて純粋であったということは明らかです。


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第2部「手で造られたものは呪われる」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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