figureというタイトルの詩(辞書を読む・02)
詩にはいろいろな形式があるようです。私は詩には詳しくないのですが、大学生時代にステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé)というフランス人の書いた詩を原文で見たときに、ずいぶん驚いたのを覚えています。その字面というかレイアウトに驚いたのです。部分的な文字列の意味は取れても、全体の意味はぜんぜんつかめず、ただその模様に見とれていました。
今回お話しする figure という言葉には模様とか形という語義があります。いま思うと、あのマラルメの詩に私が感じたのは figure というタイトルの詩だった気がするのです。
おもかげ
森鴎外が「於母影」(おもかげ)という訳詩集を出していたのを最近知りました。鴎外主宰の結社の同人による翻訳詩を集めた本らしいのですが、翻訳というところに「おもかげ」の意味が重なります。翻訳とは原文のおもかげを別の言語による「かげ」にたどる行為ではないでしょうか。
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私は辞書を読んだり眺めるのが好きなのですが、これは国語辞典だけに限りません。英和辞典や仏和辞典もときどき眺めます。眺めると言っても、ある特定の語の欄だけです。わくわくするために眺めるので、その相手はどうしても好き嫌いで選んでしまいます。
英和辞典と仏和辞典で繰りかえし読み、眺めるのは figure という単語です。私の中で、figure は日本語の「かげ」ときわめてよく似たおもかげを感じさせてくれる文字列なのです。
仏和辞典よりも英和辞典で見るほうが、その印象は強いです。大きめの英和辞典で figure の語義や例文を見ているときに覚える既視感は、「かげ」を見ているときに感じる心境と、そっくりとは言わないまでもとてもよく似ています。
かげ、影、陰、翳
逆に国語辞典で「かげ、影、陰(蔭)、翳」を見ていると決まって思いだすのも figure なのです。
かげ、影、陰(蔭)、翳
と
figure
どう見ても似ていません。
「かげ、影、陰(蔭)、翳」と figure のことなのですが、文字として、文字列としてはぜんぜん似ていません。この似てなさは、猫という文字が猫に似ていないのと似ています。
でも、似ています。気配、かげ、おもかげが似ているのです。
似ていないのに似ている
似ていないのに似ている。これは言葉においてはぜんぜん矛盾しないのです。それが言葉のありようだからです。具体と抽象が同居しているのが言葉のありようだとも言えます。
文字や文字列で、上の両者を見ていて「異なる」――違った文字であり文字列だ――と感じるのは具体的な体験です。
一方で、似ているとか同じだと感じるのは文字と文字列という視覚的な像である具象の向こうに、意味なり語義なりイメージという手で触れることができなもの、つまり観念や抽象を見ているからです。
文字と文字列(具象)に、それとは別のもの(抽象)を見ている、言い換えると、そこにはないものをそこに見ているわけですが、これは影や面影を見ているのと似ていると言えば、分かりやすいかもしれません。
そこにないものを、そこに見る
そこにはないものをそこに見る。影や面影を見る。こうした行為は、日常生活において、人が物の形を見たり、人の姿を見たり、物や人の形や姿を思いうかべたり思いだしたり思いえがいたりするときに、誰もが体感しているはずです。
「かげ、影、陰(蔭)、翳」と「figure」、そして辞書にあるそれぞれの語義や例文は、まさにそうした体感を、言葉の顔や表情や身振りとして見せてくれる。そんなふうに私は思います。
これは――ややこしい言い方ではありますが――具象と抽象の同居という言葉ありようでもあるのです。
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辞書に載っているのは意味ではありません。言葉なのです。意味を見たことがあるでしょうか。触れたことがありますか。
話し言葉であれば音を聞くことができます。文字であれば、形を見ることができます。それが言葉です。具象としての言葉だと言えるでしょう。
見ることも聞くことも触れることもできない意味は抽象なのです。意味もまた言葉を成り立たせているのは事実です。意味という言葉をつかうかぎり、抽象を免れることはできません。
そうであれば、言葉という具象と抽象の同居と積極的にかかわり、戯れようではありませんか。
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以上述べたことは、国語辞典や〇和辞典だけにとどまりません。
たとえば、小説に書かれているのは言葉であって作者の意図ではなく、思想書と呼ばれる本に書かれているのは言葉であり思想ではありません。こうしたことにきわめて敏感であり、意識的に言葉を書いていた人たちがある時期のフランスや英米加にいました。
現代思想とか新しい批評という言葉でくくられたことのある一連の本や論文が立て続けに発表され、飛ぶように売れもした時期が以前はあったのです。
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そうした本や論文が日本に紹介されたとき、言葉を意味や思想や意図に置き換えるのではなく、書かれた言葉そのものに視線を向けるという手法を取った人たちがいたのですが、その紹介者たちがの多くが思想ではなく文学研究の担い手であったことは注目していい事実だと思います。
それにもかかわらず、書かれた言葉にもっぱら思想や思考や世界観や生き方や本の宣伝文句を、または意図や美意識や伝統や人生観や伝記や単なる筋や誰かの貼ったレッテルといった抽象を読む人たちがいまもあとを絶たないのは、具象と抽象の同居という言葉のありようが根強くあるからにちがいありません。人はこれなしでは生きられないようです。もちろん、この私を含めての話です。
いい悪いとか正しい正しくないとか、否定できるできないといったことがらでないのは確かでしょう。
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繰り返します。そうであれば、言葉という具象と抽象の同居と積極的にかかわり、戯れようではありませんか。
では、じっさいに見てみましょう。
かげ、figure
まず、「かげ」から見てみます。複数の国語辞典で「かげ、影、陰(蔭)、翳」を調べると、おおよそ次の語義があります。
・目に見える物や人の姿、物や人の姿が何かに映る影、何かに映った影を作っている光、人が思いの中でいだく人の顔・姿や物の像、物や人にさえぎられてその後ろにできる暗い場所(陰)
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つぎに figure を見てみますが、複数の英和辞典で figure を調べると、次のような語義があります。
・【名詞】形・形態・形状・外観、人の姿・人影、人物・肖像、有名人・名士、挿絵・図・図形、フィギュアスケートのフィギュア(動作・図形)、表象、数字・計算・総額、音楽のモチーフ、計算、模様、言葉の綾
・【動詞】計算する・見積もる・数字で表す、想像する・心に描く・思う・考える、かたどる・彫像や絵画として表す
フランス語の figure と英語の figure の語義はぴったり重なるわけではぜんぜんありませんが、似た印象を私は受けます。ただし、顔や表情の意味が強いのが特徴であり、最大の違いは英語のように動詞として使われない点です。
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フラン語での figure を大ざっぱに分類すると以下のようになります。
・顔・顔つき・表情、有名人・名士、挿絵・図・象徴・写真・図表・模様、フィギュアスケートやダンスのフィギュア・フェンシングの構え、人物像・肖像、言葉の綾
【※参考資料:広辞苑(岩波書店)、ランダムハウス英和大辞典(小学館)、リーダーズ英和辞典(研究社)、ジーニアス大英和辞典(大修館)、スタンダード沸和辞典(大修館)、プログレッシブ仏和辞典(小学館)】
以下では、上で見た英語の figure の語義を小見出しに分けて、それぞれの語義について私がいだいているイメージを書いていくことにします。
英語の figure
英語の figure の底にあるのは、「形」および「形としてあらわれること、あらわすこと」のようです。語源の欄に「でっちあげる」があってはっとします(ジーニアス英和大辞典)。
figure の語義(辞書に載っている意味)とそのイメージ(私のいだいている個人的な印象)を細かく見ていきましょう。
*形、形態、形状、外観
形、形態、形状、外観――というふうに、英和辞典に載っている語義は訳語、つまり日本語です。確かに「意味」とも言えますが、そもそもこれは日本語の単語なのです。言葉の意味(意味とは本来は見えないものであるはずです)が、見える言葉として説明されているとも言えます。
英和辞典を読むとき忘れがちな、この事実はどんなに強調してもしすぎではないと思います。
念を押しますが、辞書に載っているのは意味(抽象)と言うよりも言葉(具象)なのであり、言葉のうちでも文字(具象)なのです。これを漠然と曖昧に「意味」(見えない観念)だと考えると悪しき抽象――私が勝手そう呼んでいるだけでそんなものはありません、これもまた抽象だからです――におちいることがあり、要注意です。
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形、形態、形状、外観――figure の持つある側面を日本語の文字としてこう変奏されると、そこに見える漢字や漢語にそなわった身振り、つまり形の喚起力に感心します。それぞれの形が異なっています。意味という見えないものが、具体的な文字の違いとして形を取ってあらわれているわけです。
「ぜんぶ同義だ」とか、「ぜんぶ同じだ」とは悪しき抽象でしかありません。上の文字列では、異なる日本語の単語が並べられ、同時に変奏されているのです。変奏ですから、ずれていく形とそれぞれの形が呼びさますイメージ(意味でもいいです)は異なっています。
私にはこれをぜんぶ同じだという勇気はありません。
形、形態、形状、外観――。じっと見つめましょう。それぞれの言葉(文字列)の形が、言葉としての語義やイメージを擬態しているのか、またはその逆の事態が生じているのかが不明になり、私はわくわくどころかぞくぞくします。
*数字、計算
フランス語の figure にはない数字と計算という語義が、英語の figure にはあるのですが、私にはこれが意外であり、考えこみそうになります。語源やその意味がどのような経緯で生まれたのかを調べて知りたいと思うのではなく、勝手に自分で想像してしまうのです。
数という抽象的なものを人が扱うためには、おそらく形のある物に置き換えないと難しいのではないか、と想像します。たとえば、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲや、一、二、三のように、物を模した形が数字になったのかもしれません。この場合に頭に浮かぶのは、指とか小枝とか小石です。あと貝殻も。
リーダーズ英和辞典には「(アラビア)数字」という記述があり、ローマ数字と漢数字を連想していた私は苦笑してしまいます。
*人の姿、人影、肖像、人物
「人の姿」を「人影」に置き換えると、その文字が連想させる「影、かげ」というイメージに魅惑されます。
自分の姿を肉眼では目にできない宿命を負った人間が、自分の姿を地面や壁に映った影として見る、または水面に映った像として見るのですから、はかなげで切ない気がしてなりません。
地面に落ちたり伸びる影も、水面に映る影も長くそこにとどまるものではないからです。
人が絵を描くことを覚えて姿が肖像となり、つくった話や物語の中に登場する人間が人物(キャラクター)になっていったのでしょうか。絵や言葉からなるフィクションに、人物やその姿が生き生きとした形であらわれるようになっていった。そう考えると興味深いです。
*図案、模様、図、図解、さしえ
図案、模様、文様、紋様、デザイン、図、図解、さしえ、図形。こう並べてみると面白いですね。人において視覚がどれだけ大きな意味を持っているかがうかがわれます。身の回りを見まわすと、こうしたものだらけだと気づきます。
テレビを見ても、パソコンでネットに入っても、絵や像や模様や図に満ち満ちています。ぜんぶ見るものです。
人に備わった「見る」という行為が、その意味とイメージをはらんだ「意味」という言葉を生み、その「見る」が「まねる」「えがく」「かく」「つくる」という一連の視覚をともなう行為や動作を増殖させていったのでしょうか。
想像すると気が遠くなりそうです。軽い目まいも覚えます。もちろん、気持ちがいいという意味です。こういう想像が私は大好きなのです。これがあるから、この文章を書いているのであり、これがあるから毎日生きていると言っても言いすぎではありません。
*フィギュア
日本語で頻繁につかわれる「フィギュア」はダンスやスケートのフィギュア、つまり舞台上や氷上に描く図形から来たようです。人形の「フィギュア」もカタカナでよくつかわれていますね。
*名詞として、動詞として
形を描く、形のあるものをいじる。英語ではほとんどの名詞が動詞としてももちいられる点が、日本語を母語とする私には興味深く感じられます。
たとえば、Don't dog me. で「(犬みたいに)私を追いまわすな」、Please water these plants. で「(花などに)水をやってください」となります。日本語では「行く(iku)」「食べる(taberu)」「整う(totonou)」みたいに「ウ段」で終わるわけですが、言葉の形のありようを比較してみると不思議です。
figure は「計算する、見積もる、数字で表す」「想像する、心に描く、思う、考える」「かたどる、彫像や絵画として表す」という動詞としてももちられています。
英語の figure には名詞だけでなく動詞があることで、figure の層が増し、さらに楽しい読み物になっていると感じます。
*音型、音形、モチーフ
音楽に無知なので「音型、音形、モチーフ」という語義の意味は想像するしかありません。音にも形がある。音が心の中に形となってあらわれる。そういうことでしょうか。うっとりするイメージです。
大きめの英和辞典を読むと、さまざまな専門用語としての訳語が出てきて、驚かされることがよくあります。詳しい意味を知りたい場合には、さらに国語辞典や百科事典で調べたり、専門書に当たらなければなりません。
勉強が苦手な私は、その意味を想像してわくわくする楽しさのほうを選びます。
*文彩、言葉の綾
修辞学や批評や文学研究で使用される訳語である「表象、象徴、比喩、文彩、ことばのあや」と並べると、個人的にはぞくぞくします。
「比喩で(として)表す、表象する」、「登場する、出る、顕著に現れる、重要な役を演じる」、「筋が通る、意味を成す、理にかなっている」というイメージが頭に浮かびます。私は「正しい」とか「正しくない」にはこだわりません。
研究者でも探求者でもない私には、自分にとっての figure が大切なのです。知識や蘊蓄や含蓄は苦手です。
私のイメージする figure
もともとないものを心に浮かべるのは、空(くう)を「なぞる」に近い気がします。見えないけどなぞる。そこにはないけどなぞる。ひまつぶしになぞる。ぼんやり見えるものをなぞる。
なぞっているうちに何かが見えてくる。見えてきたものを逃さないために、さらになぞる。
空をなぞる。これがつくる、でっちあげるの一歩手前の身振りなのかもしれません。ただし、次の一歩は長い気がします。なぞるが無数に繰りかえされて、たぶんいま創作や文芸と呼ばれるものがあるのではないでしょうか。
ひょっとすると、文学や芸術だけでなく、科学と呼ばれる分野での発明や発見も、さらには広く文化や文明においても、空をなぞることが切っ掛けになって、「つくる(作る、造る、創る)」といういとなみが起こってきたのではないでしょうか。
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空(くう、そらやからでもいいです)をなぞる――これが私の figure のイメージです――の次の一歩は永遠の途上にあるのではないでしょうか。
何をなぞっているかは人には不明。なぞっているうちに形があらわれる。その形にうながされて、ものやことを「つくる」。
だから、なぞる。人はなぞりつづける。
英和辞典の figure に並んでいる言葉たちを見ているとそんな気がします。見ていて飽きません。
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私にとって辞書は詩です。英和辞典であれば、見出しの単語の訳語である日本語が並んでいます。国語辞典であれば、見出しの語の説明や言い換えた語が並んでいます。
その並んでいる語を、自分の頭のなかで勝手に並べ替え、組み替え、付け足して、どんどん言葉を紡いでいく、綴っていく、織っていく。
自分が生きていない物である文字に働きかけて、その舞いをながめる感じです。
fuggire
上の動画を見ていてはっとしました。
イタリア語で「逃げる」は fuggire なのだそうです。似ていますね。一文字余りで、アナグラムができそう。
hasard を感じます。Un coup de dès jamais n’abolira le hasard
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ステファヌ・マラルメのある詩の中で、私が特に好きな箇所があるので紹介させてください。
「海のそよ風(Brise maraine) 」の冒頭部分です。
(原文)
La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.
Fuir ! là-bas fuir ! ……
(普通の訳)
ああ、肉体は悲しい! それに私はすべての書物を読んでしまった。
逃げよう! 彼方へと逃げるのだ!
(うつせみ訳 aka アホ訳)
うつせみは悲しいよな、やれやれ、読むものはなくなったし。
こうなったら、逃げよう! うつせみのあなたに逃走するのだ!
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うつせみのあなたに
うつせみは、現身(現人)とも空蝉とも表記されます。なぜ、二通り(三通り)の漢字の表記があるのかなのですが、ちょっとややこしいですので結論から書きます。
いまこの世にいる人間である貴方に
いまのこの世の彼方に(向こうに)
蝉の抜け殻のような身である貴方に
蝉の抜け殻のような状態の彼方に(向こうに)
このように四通りの解釈が可能なのです。
「うつせみのあなたに」というひらがなだけの言葉を漢字をまじえて表記すると、これだけの意味になりうるということは、ひらがなの表記は多義的とか多層的であると言えそうです。意味が曖昧だとか幾通りにも取れるとも言えます。
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勝手な解釈で恐縮ですが、マラルメの「海のそよ風(Brise maraine) 」は、私の大好きな「うつせみのあなたに」というフレーズを具現した文学作品なのです。かつて大学でフランス文学を学び、この詩に出会えたことを感謝しているほどに愛着を覚えています。
私は積極的に詩を読む習慣がなく、また詩を書かない人間でもありますが、この詩だけは別格です。
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