タブー(線状について・02)
人は直線上で迷う。直線上で迷うことはよくどころか、しょっちゅう経験していることだ。前回は、そういうお話をしました。
大切なことを申し上げなければなりません。前回にお断りしておくべきだったのです。ごめんなさい。
口にしてはならないのです。タブーなのです。
何がって、「直線上で迷う」です。ここでは、その話をしています。そればかりと言うべきかもしれません。
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直線上で迷う……。
わたし、直線上で迷っているんです――。
おれ、直線上でお迷い中――。
じつはですね、わたくし、直線上で迷いつづけて七十年になります、はい――。
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こんなことを口にしてごらんなさい、どう思われるでしょう? どう言われるでしょう? どんな顔をされるでしょう?
直線上で迷っています、なんて口が裂けても口にしてはならないのです。
タブーなのです。
上の曲がらみで、加藤茶さんの例のギャグの動画を載せようとしたのですが、年齢制限がかかっているので、やめておきます。
お子さまにはタブーなようです。
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「直線上で迷っています」はタブーです。
なぜなのでしょう?
問題になるのは「直線上で」ではありません。「迷っている」なのです。
人はむやみに自分が迷っているなんて口にしてはなりません。馬鹿にされる、軽蔑される、へたをすると仲間はずれにされるとか、無視されるという仕打ちを受けます。
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話をもどします。小説の話をしているのでした。
とりわけ、小説を読んでいて迷っているとか、読んだ後に迷っていてはならないのです。
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小説の読書感想文で「迷っている」という文言はあまり目にしません。「分からなかった」とか、「難解だった」とか、「理解できなかった」はかまいません。じっさいによく見かける言葉です。
「迷っている」は宙吊り状態です。
いっぽうで、「分からなかった」とか、「難解だった」とか、「理解できなかった」は着地しています。不時着や墜落も着地なのです。
(※じつは本記事は、「宙吊りにする、着地させない」を書きあらためているつもりなのです。引かないでくださいね。なるべく取っつきやすく書きますので。)
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直線上に進行している小説、つまり直線である小説を読んでいて、たとえ迷ったとしても、「迷っている」とか「迷った」と口にしてはならないと言えそうです。
「言えそうです」というより「言えます」でしょう。「でしょう」というよりも「です・ます」です。ちなみに、デスマスクもマスクです。
マスクメロンはマスクではありません。では、E・マスクさんは? これは異論がありそうです。一つ確実に言えるのはマスクメロンとマスクさんは、ともにネットと親和性があることです。
「あんたも好きね?」ですか? あ、はい、好きなのです。掛詞が大好きなのです。
「掛詞だなんて格好つけるなよ。駄洒落じゃないか」ですか? あ、はい、そうも言いますね。駄洒落とかオヤジギャグは掛詞の別称であり蔑称でもあります(これまでにこのギャグを何回使ったことでしょう)。
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ちなみに、マスク(Musk)さんはマスク(mask)ではなくて、むしろマスクメロン(muskmelon)に近いようです。
マスク(mask)といえば、なんといっても、この曲、そしてこの動画です。
マスカレード(仮面舞踏会)が言語活動のことに思えてなりません。lonely とあるのは、ヒトだけが play しているゲームだからでしょう(この play についても、「宙吊りにする、着地させない」で触れていますので、よろしければどうぞ)。
その中で、私たち人類は「迷っている」(lost)のです。
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それにしても、素晴らしいマッチングです。上の動画では、この楽曲にマルグリット・デュラスの小説を原作とする映画の映像がもちいられています。
YouTubeの醍醐味は、ときどきこのような編集に出会えることです。
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私はデュラスの『愛人 ラマン』(清水徹訳・河出書房新社)を読んで、いまだに迷っています。
宙吊り状態がずっと続いているのです。
そして、これでいいのだと私は思います。
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直線上で迷う。直線状に書かれた小説で迷う。
こう口にするのはタブーなのです。そもそも小説が直線状に書かれているのは迷わないために、そうなっているからにほかなりません。
言い方を変えると、小説が直線状に書かれているのは、現在・過去・未来と線状に続いているかに思える人生が直線ではなく、くねくねごちゃごちゃしているからです。
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人生が、この世界が、宇宙が、くねくねごちゃごちゃした迷路であれば、すっきりさせたくありませんか。それが人情だと思います。
すっきりさせるための一つの方法が、線化であり直線化なのです。
始まり ⇒ 途中 ⇒ 終わり
最初の一文字 ⇒ 最後の一文字
「直線で迷う」なんて口にするのは、そのせっかくの工夫を台無しにする行為にほかなりません。たとえ、その工夫が誤魔化しとか抽象とか錯覚であったとしても。
だから、「直線上で迷う」はタブーなのです。
直線上で迷うなと言っているのではありません。誰もが迷っています。「直線上で迷う」と口にしてはならないのです。
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ところで、さっき触れた『愛人 ラマン』(清水徹訳・河出書房新社)ですが、自伝的小説と言われていながら、その「人生」がかならずしも直線的には綴られていない感じがします。
直線状でありながら迷路である。こういうことが意外とありそうです。これが、この連載のテーマになります。
もしも、デュラス作のその小説に迷路のように書くという工夫があるとするなら、あえてその工夫に付きあって(私の好きな言い方だと「ともぶれ・共振」です、言葉の身振りに付きあってこちらも振れるのです)、その「迷路」のなかで迷うことが、デュラスに対する敬意と礼儀になるのかもしれません。
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上でも述べましたが、この連載は以下の記事を書きあらためています。「宙吊りにする、着地させない」では、蓮實重彦先生の著作から部分的に引用し、感想を述べさせていただきました。私としては、改まったというか、おとなしめの文体で書きました。この連載は自然体で書こうと思っています。
(つづく)
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