言葉は「出る」、文字は「現れる」
「赤ちゃんのいる空間」の続きです。
今回は個人的な語感に基づいた話をします。まず、まとめから書きます。
*まとめ
まず、今回のテーマである「出る」と「現れる」という言葉と文字についての私のイメージをまとめます。
「出るもの」と「現れるもの」という分け方をしますが、世界に「出るもの」と「現れるもの」の二種類のものがあるという意味ではありません。
「出る」も「現れる」も言葉です。この日本語をつかう人が世界をどのように言葉で切り分けることになるか、という話です。言葉の綾の問題だとも言えるでしょう。
人は言葉の綾にからめとられながら生きています。私なんか言葉の綾に雁字搦めになっている自分を感じます。この記事を読めば一目瞭然です。
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なお、今回の記事は長いので、下の目次をご覧になり、気になるところから、お読みになってかまいません。そういうふうに書いてありますので(金太郎飴状につくってあるのです)、お試しください。
*「出る」と「現れる」
「出る」と「現れる」は似ています。「似ている」と「同じ」くらい似ている気がします。同じでないことは確かです。
こういうことは、例文で考えるのがいちばんです。「えっと……出る出る……」なんて考えていても、出るものと出ないものがあります。
今「出るものと出ないもの」と言いましたが、そもそも世界というか宇宙に「出るもの」と「現れるもの」があるなんてことはないと私は考えています。
何かが「出る」と言うのか、または「現れる」と言うのか、そういう次元の話ではないでしょうか?
言うか言わないかの話なのです。つまり、言葉の慣用によるものだという意味です。上で述べたように、言葉の綾とも言えるでしょう。
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世界は言葉遣いからなる――。世界のあらゆる現象は言葉の慣用でしかない――。
こんなことを誰かが言っていても不思議はない気がします。誰かって、たとえば、ウィトゲンシュタインとかです。
昔、その人の著作の邦訳を読んだことがありますが、今になってその人をイメージすると、そんなことを言いそうな人だった気がします。
世界は言葉の綾からなる――。世界のあらゆる現象は言葉の綾でしか記述できない――。
私はそんなふうに感じています。架空の話と私的な妄想――どちらも同じですが――をごっちゃにして、ごめんなさい。
話を戻します。
さきほど「まとめ」で書いた「出るもの」と「現れるもの」を、もう詳しく考えてみます。
・「出るもの」は、いったん出たらそのままの形で、とどまることはなく、そそくさと何かに変化する。移り変わる。または、そのままの姿で移動する。万物流転、パンタレイ。具体的。体感的。日常的で、庶民的で、気さく。過客という感じ。
・「現れるもの」は、いったん現れたら、しばらくそのままの形でいる。つまり、居すわる。しつこく、そのまま居すわり続けることもある。抽象的。視覚的。しつこい割には、とりとめがない。非日常的で気難しい。たまに姿を現す主人(あるじ・おやじ・ぬし)という感じ。
私には以上のようなイメージがあります(定義や一般論ではありません、念のため)。
具体的に見ていきましょう。
*出るもの
「出る」と「出るもの」について見ていきます。
給料、給付金、保険金、年金、月、お日さま、星、うんち(生理現象や排泄と親和性があるようなので、これ以上明言はしません)、血(あっ、出てしまいました、ごめんなさい)
お化け、ゴキブリ、お茶、お酒、薬、地金(じがね)、色気、浮気心、煙、火、風、水、人、くい
芽、目、おなか、背中、手、足、頭、顔、舌、鼻毛、にきび、できもの、声、音、音声、言葉
意見、異論、異議、感想、コメント、クレーム、苦情、批判
こうしたものは、だいたいにおいて(あくまでもだいたいですよ)、いったん出たら、姿を変えませんか?
姿を変えなくても移動しませんか? いつまでも居すわることはない気がします。
庶民的で、気さくというか、日常生活でよく体験したり、出会うものではないでしょうか?
出ていったお父さん、お母さん、息子、娘、猫、おじいちゃん、おばあちゃん――なんて悲しくて心配なケースもあります。たとえ姿を変えても、元気でいてもらいたいと願うしかありません。
死者、負傷者、重傷者、重症者、犠牲者、被害者、病人
パチンコの玉、一等賞、特賞、外れ、スカ、当たり、大技、珍しい技、特別賞、殊勲賞、大吉、小吉、凶、被害
ごみ、廃棄物、廃品、粗大ごみ、ぼろ
*
次の例は、「出る」というのが一般的だと思いつつ、「現れる」とも言えそうだと感じるものです。
新製品、新型の○○(商品や製品)、新刊書、新曲、逸材、雲、雨雲
クマ、サル、イノシシ、ハクビシン(「現れる」とも言いますが「出る」のほうが被害っぽいニュアンスを感じます)
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次の例は、「出る」とも「現れる」と言えるが、ニュアンスががらりと変わるもの
人、病人、死者、骨、手、顔、舌、足、鶏肉、肉、血、皿、ごみ(「出る」あるいは「現れる」をくっ付けて思い描くと、シュールな、または恐ろしい、あるいは滑稽な絵になるものもあります)
*現れるもの
新星、新人、スーパースター、天才、救世主、独裁者、正義の味方、助っ人、大物、神、○○の神さま、○○さま
幽霊、霊、化けの皮、怪物、犯人(「出る」と言う人もいそうですが、私の気分的にはこっち寄りです)
人影、人の形、姿、像、影、正体(どっちかと言うと「現れる」ですよね? 呪術的なものを感じます)
結果、真価、影響(「出る」とも言いそうですけど、偉そうなのでこっちに入れます)
心(間違えました、「こころがあらわれる」のことです、念のため)
なんだか、近づきがたくありませんか? なかには、畏れおおいとか、不気味なものもありますね。「出る」とは雰囲気が違います。
私は親近感を覚えないので、これくらいにしておきます。
*「出る」と「現れる」のイメージ
「出る」は、具体的な行為であり、運動であり、身振りなのです。生理現象が好例です。
生理現象や排泄を思い浮かべたり、思い描いたり、思いだしたりしてみてください。体感的に「出る」「出そう」「出た」がわかるのではないでしょうか。
目をつむっても、「ああ、もうすぐに出る」とか「あはっ、やっとで出た」とわかる――これが「出る」の究極のイメージだと思います。必ずしも視覚的なイメージではないのです。
ここで、「月とか星とか給料はどうなの?」なんてツッコまないでください。この記事では、だいたいにおいての話をしています。
*
それに対し、「現れる」は「あら、割れる」という感じです。すごいことが起きているのです。そのすごいことが視覚的に体験されるという点がきわめて大切です。
「あらわれる」という言葉を転がしてみます。
あらわれる、現れる、顕れる、表れる、著れる
現像、現象、表出、出現、顕現
(ただし、ここでは漢語よりも和語にこだわりたいと思います。)
あらわ、露わ、顕わ
露見、顕著、露骨、露出、露天風呂
こうやって見ていくと、「あらわれる」というのは、とにもかくにも、見えるんです。視覚的なのです。
*
人は視覚的なイメージに弱いので、思い込みや見間違いやまぼろしである可能性も高そうです。
見ているようで見ていない、見えているようで見えていないという意味です。これは自分を観察するしかありません。
なお、見えるようで見えない、見えているようで見えていないをテーマにした小説を書いた作家として、古井由吉を挙げたいと私は思います。
古井が直接的な視覚的描写をなぜか避けて、伝聞(人から聞いた話)にあれだけ執着した裏には、視覚への強い懐疑と不信の念とがあると私は感じています。⇒「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)」
話を戻します。
人の「見る」「見える」は、他人からは見えないのです。「読む」「読める」「わかる」も他人からは読めないし、わかりません。
見落としや見間違いも多いです。なにしろインクの染みや画素の集まりを物と見間違えるくらいですから。絵や写真やたぶん映画(映画の中ではさまざまな錯覚とトリックが利用されますが映画を成立させているものが視覚的な錯覚とトリックなのです)も、そうした見間違いや錯覚を利用した仕組みです。
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見間違いや錯覚には二種類あるのではないかと私はかねがね感じています。
1)似ているもの同士を見間違う、錯覚する。
たとえば、写真や映画や写実的な絵です。平面上であるとしても、その像が「似ている」と見間違えます。猫とよく似た像を、猫と見間違えると言えばわかりやすいかもしれません。逆説や皮肉ではなく、文字通りに取ってください。これはヒト以外の生き物もおこなっている気がします。猫を見ているとそう感じます。
2)似ていないのにもかかわらず、見間違う、錯覚する。
文字が好例です。というか文字しかない気がします。猫とはぜんぜん似ていないにもかかわらず、猫という文字と猫をいわば見間違える、錯覚するのです。これは組織的かつ体系的な学習の効果です。見間違いと錯覚をここまで見事に組織化し体系化して教えるのですから、文字の習得と教育は人類の身に付けた最強のまぼろしと言えそうです。これも、逆説や皮肉ではなく、文字通りに取ってください。これはヒトだけがおこなっているのではないでしょうか。猫を見ているとそう感じます。猫にはヒトのまぼろしが通じないのです。
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話を戻します。
大切なことは、冒頭でも述べたように、世界というか宇宙に「出るもの」と「現れるもの」があるのではありません。日本語では「出る」と「現れる」という言葉で世界の一部を切り分けているという話なのです。
その意味で、この記事を、たとえば日本語とは異なる切り分け方をしている英語に翻訳するのは難しいのではないかと思います。
*言葉と文字
言葉と文字については、のちほど詳しく見ますが、ここでは楽しく遊んでみましょう。
例文です。
・言葉が出る。
・言葉が現れる。
上は、日常生活で頻度の高いフレーズです。実際、言葉(音声)は身体から「出る」ことがいちばん大切な点だと思います。
下は、不気味な感じがします。口にしたことも文字にした記憶もありません。その光景を想像すると楽しいです。詩をはじめ、文学作品ではこういう言い方がありそうです。
・文字が出る。
・文字が現れる。
どちらも、あぶり出しみたいにも、超常現象にも感じられます。下は、宗教の文献ではおおいにありそうな気がします。一文字でもありそうですし、名前でもありそう。思い描くとぞくっとします。
*
ところで、私の目の前の画面にある文字というか活字ですけど、これは出ているのでしょうか? それとも現れているのしょうか?
これこそ、そう「言う」か、そう「言わないか」という慣用の問題ですよね。とはいうものの、さきほど述べたように、音声である言葉が息のように身体から「出る」のに対し、文字が身体から「出る」ものではない点は重要です。
語源的には、「書く」は「掻く(引っ掻く)」なのだそうです。
私は、目の前のパソコンの画面に文字が「浮んでいる」とか「映っている」と感じています。「書いてある」のではないことは確かです。印刷物みたいに「写っている」のでもありません。
そう考えると、ひょっとして画面に文字が「現れている」のではないかなんて気がしてきました。文字というものの得体の知れなさ、不気味さを思うと、さもありなん。
みなさんは、どう感じていらっしゃいますか?
*「月が出た。」、「月が現れた。」
ここまで書いたところを眺めていると、「出る」と「現れる」は、やはり言葉の綾だと強く感じます。
同じような、または似たような出来事を、日本語では「出る」と「現れる」で分けている気がするのです。
結論から言いますと、「現れる」は「出る」の敬語っぽいのです。敬語は、日本語では独自に発達した言い方(表現法)になっています。
「出る」と言うときには、その出来事や「出るもの」「出たもの」を馬鹿にしていたり、ただ淡々と記述しているとか描写している印象を私は受けます。
一方で、「現れる」と口にするときには、ややビビっているのです。恐れているし、畏れてもいる感じ。そこまで行かなくても、敬意をいだいたり、警戒している場合もありそうです。
・月が出た。
・月が現れた。
上のほうが普通の描写や記述で、下はやや気取っているし、構えている。
・お月様が出た。
・お月様が現れた。
上も下も「様」が付いていますが、上は親しみを込めて付けて、下は敬っている「様」を付けている感じが私にはします。とはいえ、語感は人それぞれです。
*
さらに妄想します。
上は、月が出て、その月が次第に位置を変えていく、しまいには見えなくなる。そんな当たり前の展開が続く感がします。
下は、月が現れた。美しいなあ。幻想的な景色だなあ。あの月の模様は何だろう? ○○に見える。月の世界はどうなっているのだろう? 月についての昔話を思いだす。なんて感じで、物語とドラマが頭の中で生じるのです。愛でているし、敬ってもいるし、畏れをいだいているイメージ。
勝手に妄想していろと言われそうです。
*
ところで、「月が出る」についての私のコメントと、「月が現れる」についての私の妄想の長さをくらべてみてください。後者のほうが、長いです。前者は、客観的な事実を述べただけだからでしょう。味も素っ気もないのです。
そこに「出る」と「現れる」の違いが出ている、現れている気がします。自作自演をしておいて、違いだなんて世話ない話ですけど。
要するに、「現れる」は別格なのです。「出る」のように庶民的はないのです。考えてもみてください。うんちが「出る」と同じ言葉を当てるのですから。
うんちが「現れる」と言いますか? ま、語感は人それぞれですけど、私は言いませんし書きません。今書きましたけど、これは生まれて初めての経験だと思います。今日は記念すべき日かもしれません。
上でも書きましたが、「現れる」は視覚的なのです。そして、人にとって視覚は五感の中で最も位が高いのです。気位が高い存在にしか、つかうことが許されていない特別な言葉だと言えます。
*「うんちが出た。」、「うんちが現れた。」
例文で見てみましょう。
・うんちが出た。
・うんちが現れた。
下の例文をよく見てください。「現れた」があるために、「うんちちゃん」が「うんち様」に見えませんか?
・うんちが出た。すっきりした。
これで話は終わりです。客観的で簡潔きわまりない描写であり記述です。これ以上付け加えることなどありますか?
・うんちが現れた。そのさまは美しく神々しくさえ感じた。うんちさまは、私たちを守ってくださるのであろうか。それとも、私たちに何か戒めを与えるために、ここに現れになったのであろうか。お供え物をしたほうがいいのかもしれない。みんなで祭壇でもこしらえようか? 祭壇は木がいいだろうか、石や岩がいいだろうか? もし生け贄を差し出すことになれば、何を差し出そうか?
妄想はそれくらいにしておけと言われそうなので、中断しますが、物語とドラマは尽きないようです。勝手に尽きないようにしていろ、ですよね。
*
では、本題に入ります。
今回の記事のタイトルは、「言葉は「出る」、文字は「現れる」」ですが、ここまでの話でこれからの話が予測できるのではないでしょうか?
*言葉は「出た」、文字は「現れた」
お察しの通り、言葉は「出る」もので、文字は「現れる」のではないか、と私は感じています。何度も言いますが、私的な語感です。
そして、その感覚は、以下に引用する、文字に対する私の思いと深くかかわっています。
*
人類の歴史の中で、言葉は「出た」と言える気がします。
現に、日本語では言葉は「出る」と言うではありませんか。言葉は「出る」ものなのです。正確に言えば、日本語ではそのように切り分けているのです。
他の言語のことは知りません。私は自分の語感で語れることだけを語る――騙るでもあります――しかありません。
言葉は、汗やあくびやうんちのように、生理現象に近いのです。自然だとも言えるでしょう。
太古から現在にいたるまで、言葉は出つづけている。そのように、日本語では言えます。そのように切り分けているのです。
(なお、あらゆる言語と方言は、ローカル(局所的、局部的、地域的)なものだと私は理解しています。どんな言語と方言にも、普遍性とか真理と呼ばれるものは――仮にそんなものがあればの話ですけど――荷が重すぎるとも感じています。)
*
一方、文字は「現れる」ものと言えるでしょう。
人類の歴史の中で、文字は「現れた」のではないかと言いたいです。とはいえ、あくまでも日本語での話であり、しかも、この記事では私の個人的な語感を語っているのだということをお忘れにならないでください。
話を続けます。
しかも、文字は、広義の言葉(話し言葉、表情、身振り、しるし)のうちで、最後におもむろに「現れた」らしいのです。でも、日本語では「文字が現れる」とはあまり言わない気がします。
(そこに)文字が書いてある、文字が印刷してある、文字が見える、文字が表示されている、文字が映っている、文字が写っている、文字が読める……。
なぜか、「文字が現れる」とはめったに言わないし書かないようです。そう言うと、あるいは書くと、なんだか変な気がします。
私には不可思議に、または不気味に感じられるほどです。いったい何が起きているのか、と。どういうことなのか、と。
「文字は現れる」と口にするのも、はばかられるほど、人にとって文字は特別な存在だと考えられます。というか、日本語を話す人にとっては、と言うべきでしょう。
*
世界は各言語や各方言の言葉の綾からなる――。世界のあらゆる現象は個々の言語や方言の言葉の綾でしか記述できない――。
そんな気がします。
*「あらわす」、「だす」
あらわす、表す、現す、顕す、著す
だす、出す
「あらわれる」を「あらわす」とすると少しイメージが変わります。人が「あらわれる」状態をつくるという視点でイメージできるからでしょうか。
私が気になるのは、「表す」と「著す」です。
表す、表面、表層、面、画面
著す、著作、著作物、著者
平面に「あらわす」「見えるようにする」わけです。今頭にあるのは文字ですが、文字に実体があるとは感じられません。墨や染料やインクの染みなのかもしれませんが、その実体っぽさは希薄です。
実体感が希薄であるにもかかわらず、人はそこに深さ、深み、奥行きを見ます。薄っぺらいものに深さと奥行きを見る性質が、人にはあるようです。⇒「表、目、面」
いずれにせよ、人は文字にこれだけ執着しているのですから不思議であり気味が悪いです。
現代や現在では「著」作権がからんでもきます。あらゆる文字列には「著」者がいるという発想です。文字が「あらわれる」ではなく、文字を「あらわす」という発想だと言えます。
辞書では「あらわれる」の見出しには「著」の文字が見えません。
*
言葉(音声)は「出る」。でも、文字は「出る」という気がしません。
広義の言葉(音声、文字、表情、身振り、しるし)の中では、文字は後発どころか、最も後れて(遅れて)「現れた」としか言えません。
しかも、文字は体系的かつ組織的に学び、習う必要があります。時間と労力を要するわけです。私もずいぶん苦労しました。その苦労は今も続いています。
まねてまなんで目指すのは、みんなが「同じ」文字を書くことです。それ以外に目的と目標がありますか? ⇒「「同じ」を教える、「同じ」を教わる(言葉の中の言葉・03)」
文字は複製であり、複製としてしか存在しないのです。⇒「複製としての文字」
*
文字は書くにしろ、読むにしろ、指や目や心でなぞるものだと言えます。なぞるのは、外にあるものだからです。
外にあるものしか、なぞれないとも言えます。なぞる対象とのあいだは、距離が必要なのです。
身体から口をとおして「出る」言葉は、出たとたんにつぎつぎと消えていきます。文字は消さないかぎり残ります。
文字は外にある外――。文字は人にとって異物であり外物(がいぶつ)なのです。
*
いつなのかは、たどりようがありませんが、文字はあらわれたのです。そして、今も目の前にあらわれつづけています。
このまぼろしは、ヒトがいなくなれば、もうあらわれなくなるでしょう。
ところで、「まぼろしが出る」とは、あまり言いませんよね? まぼろしといちばん相性のいい言葉は「見る・見える」みたいです。
やはり、人は「見ている・見えている」ようで「見ていない・見えていない」のかもしれません。
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