#112 誰でもできることなどない
自分を褒める。
できたことを褒める。
そうすることで自分のことが好きになる。
頭ではわかっているつもりだ。
だからなんとか自分のいいところとか、できたこととかを見つけて褒める努力はしている。
けれど、どうしてもそれができないときもある。
自分のことを褒めようとしても褒められない。
そんなときに必ず浮かぶ言葉があることに気が付いた。
それは、「誰でもできる」という言葉だった。
褒めるべきところでないと思ってしまう
どんなに小さいことでも褒めることが大切だというのもわかっている。
しかし、褒めることができないのは、言い換えれば、小さいことは褒めるに値しないと思い込んでいるからだと思う。
例えば、仕事へ行ったことを褒めようとしても、
「いや、仕事へ行くなんて当たり前。誰でもできることだ」
と思って、褒めようとする自分を打ち消してしまう。
あるいは、そんな小さいことしか褒めることがないなんて情けないとまで考えてしまうこともある。
そうして、またも自己否定の深い深い沼へと沈んでしまうのである。
けれど、そこで踏み止まって、そんな負の信念を疑ってみることが大切だ。
果たして本当に当たり前なのか?
果たして本当に誰でもできることなのか?
落ち着いて考えてみると、その答えはわかりきっている。
「誰でもできる」は傲慢
メンタル状態が悪いときの僕は、自己否定のプロと言ってもいい。
どんな成功体験だって、否定することができてしまうのである。
こうしてnoteを100日以上継続していることだって、
「自分なんて大したことない。やろうと思えば誰でもできる」
と小さく評価を下してしまう。
図書館のイベントが成功したときだって、
「自分ができたんだから、誰だってできることだ」
と成功体験を無下にしてしまうのである。
だが、誰でもできると思うことって、とても傲慢だと強く思う。
note100日継続や、図書館イベント成功という行動を見下している態度ともとれるからである。
これらを達成している他の人たちに対しても、そして他でもない自分に対しても、とても失礼な態度なのではないかと。
なんとか自己否定の沼から抜け出し、「誰でもできる」という言葉が自己肯定を阻害していると気づいたとき。
僕は誓った。
「誰でもできる」を禁句にしよう、と。
この世に誰でもできることなどない
食事や睡眠など、生きる上で必要なことだって誰でもできるわけではない。
環境的にも、健康的にも、食べたくても食べられない人だっている。
眠りたくても眠れない人だっている。
この世には、全ての人間ができることなんてものはないのだと思う。
自分にとって小さいことでも、
誰かにとってはとてつもなく大きいことかもしれない。
「誰でもできる」とか「当たり前」という言葉。
それで、自分ができたことを否定するのは金輪際もうやめよう。
どんなに小さいことでもできたなら自分を褒める。
どんなに小さいことでもできたことに感謝する。
自己肯定というのは謙虚であることでもあるのだと、僕は思う。
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