
#56 ある日、読書家になると決めた
三度の飯より本が好き。
そんな記事も書いたけれど、小さいときから本が好きだったわけではない。
図書館司書になってから、リアルでもネットでも、読書好きな方とお話しをする機会が増えた。心から嬉しい限りだ。
そんな人たちから、こういうお話をよく聞く。
「子どもの頃から図書館で読書をしてました」
「学生時代も勉強そっちのけで本ばっかり読んでました」
そんな言葉を聞くと、僕が心の底から羨ましいと思う。
僕が読書を愛するようになったのは、ほんの5年前から。
子どもの頃はむしろ、読書が嫌いだったのだ。
読書ができる人に憧れていた
両親から本を読んでもらったという記憶はある。
実際、家にはジブリやディズニーの絵本が今でも残っているから。
けれど自分から進んで読んだという記憶は一切ない。
むしろ覚えているのは、読書の挫折経験である。
小学校時代——
ジブリの影響で『魔女の宅急便』を読もうとするも挫折。
中学校時代——
映画で好きになった『ハリーポッター』を読もうとするも挫折。
高校時代——
カッコつけて電車の中で『ダヴィンチ・コード』を読もうとするも挫折。
漫画に慣れきってしまっている僕の脳は、どうしても活字だけの世界に浸かることができなかった。
文字だけで想像を膨らませる能力が乏しかったのである。
しかし、こうして幾度もチャレンジをしていたのには理由がある。
読書ができる人に憧れていたからだ。
かくいう両親が読書家だったし、大好きな漫画『鋼の錬金術師』の主人公エドワードも読書家だった。
何らかの刷り込みがあったとしか思えないほどに、僕は子どもの頃から「読書家」というものに憧れていたのである。
だからろくに本も読めないのに、図書館に入り浸っていた。
読書より先に図書館が好きになるという、少し変わった子どもだった。
読書家になると決めた日
それでも大学生に入ってから、少しずつ読書ができるようにはなった。
その始まりは、以前の記事にも書いた上橋菜穂子さんの『精霊の守り人』。
とはいえこれもアニメがきっかけだったから、文字だけで楽しんだとまではいかないものの、上橋さんの文体は僕の肌に合ったのだ。
それから同じく上橋さんの『獣の奏者』も夢中で読んだし、以前よりは活字に触れることの楽しさを見出すようにはなった。
しかし、本格的に読書家になろうと決めた理由はさらに後の話だ。
それは、図書館司書になってからである。
まだ新米だった頃、とある小説についてのお問い合わせを受けた。
しかし、僕はその小説も作家も知らずに、あたふたしてしまったのだ。
そんな焦る僕に、利用者の方はあきれ顔でこう言った。
「あなた司書なのに、そんなことも知らないの?」
悔しかった。
そして、腹立たしかった。
その利用者に対してではなく、自分自身が。
まだまだ新米だから。
まだまだペーペーだから。
そんな甘えがどこかにあった。
だから、司書になったからとて、何かを努力しようとは思わなかったし、行動に移そうともしていなかったのだ。
このとき、僕は自分を変えようと決めた。
子どもの頃、学生の頃に憧れていた読書家を本気で目指そうと。
読書という大海原へ
読書家になると決めてから数日。
何らかのお達しのように、上橋さんの新刊が発売された。
そして数年前、上橋さんが受賞していた「本屋大賞」を受賞したものをまずは読んでいこう。
そんな指針を決めて、読書という大海原へ舵を切ったのである。

今は概ね1週間に1冊以上を読んでいるが、このときはペースが遅い
読書をすればするほど読解力が身に着き、読書速度も上がることを痛感する
それから約5年半——。
今でも毎日15分は本を読む時間を設ける生活を続けている。
読書家という定義は難しい。
読んでいる冊数で言えば、Xにいらっしゃる読書好きの皆さんの足元にも及ばない。
完全なる言い訳だが、図書館責任者になってからは1か月に5冊読むのがやっとという状況になっている。
だけどその方々に引けを取らないことが一つだけある。
それは「何を読もうかなというワクワク」を強く持っていることだ。
読書をしているときはもちろん楽しい。
けれど、次は何を読もうかと悩む時間が本当に好きなのだ。
そのいずれも楽しめるようになったとき、僕も少しは読書家になれたのかなと思うのであった。
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夏休み。
読書感想文の時期である。
読書感想文が苦手だから、読書も苦手になった人も多いかもしれない。
僕もそのうちの一人だ。
けれど、いつ読書を好きになるかはわからない。
僕のように必要に迫られた結果、好きになるかもしれない。
いずれにせよ、僕は図書館司書として読書好きが増えるよう尽力したい。
僕は本が好きだ。
だけど、本が好きな人も僕は大好きだから。
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