#68 断ってもいいんだよ
僕は、誘いとか約束を断るという行為が苦手だった。
誘いを断ったら、友達の輪から外されるんじゃないだろうか。
誘いを断ったら、もう二度と誘ってもらえないんじゃないか。
そんなネガティブな気持ちが心を転回して、結局断れないという経験を何度もしたことがあった。
そして、断れなかったことを後悔することもしばしばだった。
いったいなぜ断るのが怖いのだろう。
僕の場合その原因は、過去にあった。
誘いが少なかった過去によって
僕が断ることが苦手だったのは、「誰かから誘われる」ということに対して憧れを持っていたからというのが理由の一つだ。
小学生の頃は、友達の数や約束の数がステータスだった。
それなのに僕は友達に誘われることが少なく、ゆえに約束の数も少ない。
自分から誘えば、約束はできる。
けど、誘われたい。
誘われる側の人間の方がなんかかっこいい。
そんな無駄なプライドを子どもの頃に育ててしまった。
だから、誰かに誘われたときは平然としたフリをして、内心はアホみたいに喜んだ。
自分のレベルが上がったような、ステータスが上がったような心地がした。
そんなプライドを育ててきたために、断ることが苦手になったのだと思う。
劣等感を育てたことによって
学生時代に僕は自己肯定感が著しく下がった。
合いもしない競争を強制されたこと。
競争結果から、自分は周りより能力が低いことを思い知らされたこと。
かといって、いじけることしかできず、努力もしない。
何もできない自分が嫌いになり、劣等感の塊になっていった。
小学校時代に育てた無駄に高いプライド。
中高時代に育てた強い強い劣等感。
この二つを併せ持った結果、
友達の輪から外されたくない。
誘われない人間になりたくない。
「誘われた人間」というステータスを手に入れたい。
という高すぎる承認欲求から、誘いを断れなくなったのである。
内心はあまり気が進まなくても。
苦手な人間がそこにいたとしても。
断れるかどうかは信じられるかどうか
誘いを断らなければ、友達の数だけは増える。
けれど、その結果、心底人付き合いにくたびれてしまったのである。
そして、僕は過去の記事に書いた通り、友達を減らす選択をしたのだ。
その選択をした結果、僕は思った。
気の乗らない誘いを断らないことは、自傷行為に等しいのだと。
同時に、自分に嘘をつくことなのだと。
自己肯定感を高める努力を始めてから、僕は自分の気持ちを最優先にすることにした。
気が乗らなければ、断る。
勇気のいることだけど、それをするようになった。
それでも、今でも付き合いのある親友達がいる。
彼らとの約束を断ることも、最初は勇気のいることだった。
けれど、彼らは、僕との関係を切るようなことはしなかった。
彼らは知らないけれど、断った後にまた遊ぶ約束ができたとき、
「あ、断ってもいいんだ」
と、泣きそうなほどに安心をしたのだった。
思えば、自分から誘って彼らに断られたとしても、あまりがっかりしない。
「OK、じゃあまた今度!」
と気軽に言えるから。
それを言えるのは、親友達のことを信じているからである。
そして断りながらも関係が切れないのは、信頼し合っている証なのだ。
断れるかどうかは、その人への信頼を測るリトマス試験紙なのだろう。