今回の記事は、錯綜体のあり方を取り出して、過去に書いてきた五つの記事「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて」のまとめとします。
第Ⅰ部では、鏡としての自我を見出しました。
第Ⅱ部では、その純粋自我に気づく意識で、思考を深めます。
第Ⅲ部の第一部では、その深い思考で、精神的な身体に迫ります。ポール・ヴァレリーは、その精神に響く純粋詩を探究していたようです。
そして、ヴァレリーは晩年に「錯綜体」という概念を考案します。
次の図のように、「錯綜体」を、ドーナツ状のトーラス構造でイメージすると、球体の球面が「私たち」、球体の中心を通る垂線が「私」です。「私」と「私たち」のあいだで、「錯綜体」が宙づりになっています。
「錯綜体」は、ベルクソンの「記憶イマージュ」と似ていませんか?
以上、言語学的制約から自由になるために。