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伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて(錯綜体)

今回の記事は、錯綜体のあり方を取り出して、過去に書いてきた五つの記事「伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にて」のまとめとします。

第Ⅰ部では、鏡としての自我を見出しました。

第Ⅱ部では、その純粋自我に気づく意識で、思考を深めます。

第Ⅲ部の第一部では、その深い思考で、精神的な身体に迫ります。ポール・ヴァレリーは、その精神に響く純粋詩を探究していたようです。

そして、ヴァレリーは晩年に「錯綜体」という概念を考案します。

「錯綜体」というアイディアがヴァレリーの思考のなかで本格的に展開されるようになったのは一九三〇年頃である。そしてこの概念は、一九三二年に発表された対話篇『《固定観念》あるいは海辺の二人』(以下『固定観念』と略称)のなかで公にされ、現在ではフランスの国語辞典に載る程度にまで人口に膾炙し、我が国でも市川浩の著作によってヴァレリー専門家以外にも知られるところとなった。
 錯綜体をめぐってヴァレリーはさまざまな定義を試みているが、もっとも簡潔なそれは「わたしのうちにある潜在的なものの総体」というものである。『固定観念』の対話者のひとり、「わたし」は言う。「わたしはこの潜在的なものの総体を(……)錯綜体と呼びます」。この「潜在的なものの総体」は、それじたいは超(非)時間的なものだが、そのつど「現在」において現動化され、わたしという人間を構成する。「多くのありそうな観念の要素や行為の要素が《私たちのうちに》存在し(潜在的な状態で――つまり……思いもよらない状態で)、――そしてその継起的な組み合わせ、絶えざる現動への移行が、――私たちを構成しているのです!」。
――pp.250-251

つまり「錯綜体」というヴァレリーが一九三〇年にこだわった概念は、「わたし」という存在の他動性と偶然性を強調することによって、世界の構成者としての位置から主体をずらすことを狙って作られた概念なのである。「現動化されるものとは、つねに偶然の出来事である」。錯綜体が「一般的に、行動する能力」と規定されるとしても、それは必ずしも能動的な自己決定にもとづく行動というわけではなく、外界からの刺激に対するリアクションとして、私たちはいわば行為せられているのである。「私たちとは結局のところ、起こりうる諸々のことに取り囲まれ、支えられている一つの可能性の感情、感覚でしかない」。錯綜体とはつまり、「どんなものであれ何らかの状況が私たちからひき出しうるものの総体」なのである。――pp.252-253

―― 第Ⅲ部「身体」 第二章「生理学」

次の図のように、「錯綜体」を、ドーナツ状のトーラス構造でイメージすると、球体の球面が「私たち」、球体の中心を通る垂線が「私」です。「私」と「私たち」のあいだで、「錯綜体」が宙づりになっています。

この図は独学の具体例の一つにすぎません。

「錯綜体」は、ベルクソンの「記憶イマージュ」と似ていませんか?

以上、言語学的制約から自由になるために。