『The Best American Short Stories 2022』③ 香港の雨傘運動、ニューヨークのコロナ禍を経た中国系の一家が抱える謎 Gish Jen「Detective dog」
BASS(Best American Short Stories 2022)のシリーズの前回「Post」の紹介で、現在起きているできごとを小説にするのは難しいと書いたが、今回紹介する「Detective dog」は、香港の雨傘運動からコロナ禍まで、いままさに目の前で勃発している重要な問題を取りあげている。
物語は香港出身の裕福な一家を軸として語られる。一家の母親であるベティは、自分の母親にこんなふうに言われて育った。
いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」である。ベティは教えを守り、ひたすら金を稼いだ。そして香港が雨傘に覆われるようになると、巻きこまれないように一家でバンクーバーに移住した。バンクーバーにレイシズムの嵐が吹き荒れるようになると、ニューヨークに移住した。ニューヨークは、かつて姉が住んでいた街だった。
バンクーバーでは「あらゆるものを買い尽くす中国人」となじられたが、ニューヨークでは心穏やかに過ごすことができた。香港の警察が大学を占拠しようとも、コロナによって街が封鎖されようとも、マンションで優雅に暮らすことができた。
一家にはセオとロバートというふたりの息子がいる。弟のロバートは養子として引き取った子だ。17歳になったセオは民主化運動が弾圧される香港の映像に釘づけになって、かつての友人たちを探す。政治には関わるな、金さえ稼げばいい、という一家のポリシーに強く反発するようになる。そんなセオを見ていると、ベティは消息を絶った姉のボビーを思い出す。
一方、9歳のロバートは英語の授業で物語を書きはじめる。毛穴から人間の心を読み取る〈mind-reading hats〉にまつわるミステリー、といった謎めいた風変わりな話を創作する。そんなある日、家族にまつわる謎をペットに語るという宿題が出される。ロバートは自分が〈Detective Dog〉だと言って、ベティにミステリーをせがむ。そうして、ベティは一家の謎について語りはじめる……
香港の民主化運動をめぐる一家が描かれているが、政治に関わろうとしないベティ夫婦が悪(体制側)で、民主化運動を支援しようとするセオが善だと単純に描かれているわけではない。
コロナでメイドが来なくなるとたちまち不満を抱くような金持ちの息子であるセオがプロテスターを気取っているのは滑稽であり、メイドのかわりにベッドメイキングを自ら行ったロバートがいちいちお小遣いを要求するくだりはユーモラスでもある。
しかし、結局セオは自分で金を稼いで家を出て、ちゃっかり屋さんのように思えたロバートは、人種差別を反対するクラブのためにお小遣いを使っていた。ふたりの身体には信念と呼ぶべきものが受け継がれていて、その謎がベティによって明かされるクライマックスは胸を打つ。
裕福で何不自由ない暮らしを送っていても、香港では弾圧される側であり、カナダやアメリカでは差別される側である。しかし裕福であれば、それらを回避できるのも事実である。そのジレンマを作者は見事に掬いとっている。
下のインタビューにおけるインタビュアーの冒頭の言葉に、中国系アメリカ人である作者Gish Jenがこの短編で描いてみせた、裕福な有色人種であるジレンマが凝縮されている。
選者のアンドリュー・ ショーン・ グリアはこう書いている。
先に書いたように、作者のGish Jenは中国系アメリカ人作家であり、これまでに長編小説を5作、短編集を2冊刊行している。去年出版された2作目の短編集『Thank You, Mr. Nixon』は、この「Detective Dog」をはじめとする収録作がどれも高い評価を得ているようだ。
また、今回検索していたら、ほんやくwebzineさんで紹介されているのも見つけた。平石貴樹編『しみじみ読むアメリカ文学』に、現時点で邦訳されている唯一の短編「白いアンブレラ」(平石貴樹訳)が収録されているらしい。読んでみないと。
結局今回も「Detective dog」一作しか紹介できなかったが、前々回のローレン・グロフの「The Wind」、前回のアリス・マクダーモット「Post」と同様に翻訳が望まれる作品であり、短編集『Thank You, Mr. Nixon』も翻訳刊行してほしいと思う。