短編小説 結婚適齢期
アニサキスを見たのは初めてだった。切り身の鰤に塩を振る時に気がついた。キッチンペーパーを一枚取りアニサキスを引き出す。節のないミミズのようなそれを取り除き、手順通りに塩を振る。行洋は無の境地でそれを魚焼きグリルの中に置いた。火をつけると次第に鰤の焼ける良い香りが立ち上ってくる。しかし食べる時にアニサキスの事を忘れられるだろうか。
行洋が自炊を始めたのは不摂生が祟り健康診断でCを貰った為だったが、料理とはなかなか楽しいものだと気付いた。季節のものは安いし、美味い。趣味と言っても聞こえはいいし、続ければ健康を取り戻せそうな気もする。
今日は鰤の塩焼き、肉じゃが、ほうれん草のおひたしにビールを一缶だけつける。小鉢をつけるのが行洋のこだわりで、これで健康に近づけている気がする。
ピピッとグリルが鳴る。鰤は焼けたようだ。四角の和皿を取り出すと鰤を皿に移す。菜箸で鰤の両面を確認するがアニサキスの居た形跡はない。
潔癖という訳ではないが、行洋は唇を噛んでいた。そしてスマホを取り出して電話をかける。
「もしもし、母さん?」
電話のむこうで母親がどうしたね、と嬉しそうな声を出す。
「アニサキスって知ってる?」
それがどうしたね、と母親は怪訝な声を出す。
「取ったんだけど、鰤食えるのかな?」
熱を通せば平気な旨を母親は嬉しそうに話す。料理しとるの?と問われ、ああ、と答える。母は父親に向かって行洋料理しとるんだって、と話しかける。
行洋は胸を撫で下ろし嬉しそうな母親の声を聞く。
「またそのうち帰るから、じゃあ」
電話を切った行洋は鰤を眺めながら祥子の事を思い出した。なぜ祥子ではなく母親に電話してしまったのか。
祥子ならアニサキス一匹でと笑うだろうか。料理をする行洋に意気地がないと言うだろうか。格好つけたがる自分の姿にため息をつき、夕飯をテーブルに運ぶ。
最後にビールを取り出し椅子に座ると、祥子の事が浮かんでくる。ほうれん草を咀嚼する。さくさくと小気味良い音が響く。
祥子ならやはりアニサキスの事を笑うだろうし、健康診断で言われたからと自炊を始めたことをバカにするだろう。少し年下の彼女には伝わらない事もある。結婚適齢期とはいつ頃だろう。行洋は少し適齢期を過ぎてしまったかもしれない。柔らかい腹の肉を撫でながら鰤に箸をつける。しかし進まない。食べる気がしないのだ。
祥子に電話をかけようと思う。結婚しないか?と。あるいは別れないか?と。
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