短編小説 頷く女
牧田さんが「そうに違いない」と言うのでハルミは頷いた。給湯室で他人と出会ってしまうというのはそういう事である。緑茶を淹れる仕草をしながら、相手の愚痴やら悪口やら弱音やらを聞く。ハルミに出来るのは頷くだけである。
「じゃあね」と牧田が言ったのでハルミは緑茶の缶を戻し、インスタントカフェオレの小さな袋を取り出した。ハルミは甘いものが好物である。袋から粉をマグカップに入れてポットからお湯を注ぐとインスタントカフェオレは出来上がる。すぐに飲まないのは猫舌だからである。
カップ片手に通路を歩いているとヨコイとすれ違う。ヨコイは一瞬ハルミの尻を撫でた。驚いてヨコイを見上げたがすでにヨコイは通路の角を曲がった。ハルミはきょろきょろと辺りを見渡し、誰にも見られていなかった事に安堵する。ヨコイと付き合っているなんて会社に知られたらもうここには居られなくなる。知られたならば。
ヨコイとの関係が始まった時をハルミは明確には覚えていない。飲み会で隣の席になったり、家族旅行のお土産を余分に貰ったり、重い荷物を代わりに上に上げて貰ったり、そういう積み重ねでキスをしたような気がする。好きと言われた覚えもないし、ハルミから好きと言った事もない。ただ、二人でいる時ヨコイの服からハルミとは違う柔軟剤の匂いを感じたりすると、身体が熱くなる。「アレがさ」なんてヨコイが口を滑らせ奥さんの話をしたりすると思わずヨコイの頬を張りたくなる。これは恋か。そんなことはどうでも良くてハルミはヨコイと居ると言い表せないような感情に振り回されて自制がきかなくなるのである。
牧田さんは「そうに違いない」噂話をよく知っていて、ハルミはいつか牧田さんがヨコイの噂をするのを待っている。ヨコイのことはなるべく知りたい。でも牧田さんがヨコイの話をしたことは無かった。ヨコイは牧田さんから信頼されているのかもしれないとハルミは思った。
事務室に戻り、席にカップを置くと私物のスマホが震えた。人がいるので確認はできない。少し冷めたカフェオレに口をつけると連絡してきた相手は玲子のような気がしてきた。玲子は「不倫は不潔」とハルミをブロックした元友達だ。不潔と言われ気分が悪くならない訳ではないが、玲子は綺麗なのかと問い返す事もしなかった。話を聞いてもらえる友達を無くしハルミは寂しかった。ヨコイには縋れない。すれ違う時に尻を撫でてくるような男なのだ。
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