短編小説 運命の人
鼻の大きな人だった。鼻の左横にはおできのような大きなほくろもあった。奈津子は卓司の鼻から目が離せなかった。
じっと見ているのが失礼な事だとわかっている。だが駄目だと思えば思うほど、卓司の鼻が気になる。大きな鼻が好みな訳ではない。ただ、顔の真ん中で主張する鼻が奈津子の心を掴んだのは確かだった。
卓司は微笑んだまま、スープを飲み、サラダを食べ、肉を咀嚼し、時々他愛ない会話を奈津子に振った。奈津子は気が気ではないまま卓司に遅れないよう食事を取った。会話など相槌を打つのが精一杯で、卓司は照れた時ほくろを触る癖があると気付いた事以外は覚えていない。
ガトーショコラとコーヒーが運ばれてくるとようやく奈津子はそれに目を落とす事ができた。小さなケーキには粉糖がかかっていて、もう少し量があれば、と奈津子は思い少し笑った。
「ようやく笑ってくれましたね」
「えっ」
「ずっと難しい顔をしていたから」
コーヒーを含み、卓司は安堵するように小さく息を吐いた。難しい顔をしていたのは貴方の鼻に夢中になっていたからだとは言えず、奈津子は愛想笑いを返した。
「ケーキ、もう少し大きくてもいいなと思って」
「追加できるか聞いてみますか?」
「いえ、お腹いっぱいです」
そう、と卓司は笑い、奈津子は笑顔を返す。すると卓司の鼻がピクピクと動いた。また目が離せなくなってしまう。
奈津子はお手洗いに、と呟き慌てて席を立った。
顔が赤い。奈津子は自分の顔の映った鏡を見つめ、荒い呼吸を整える。奈津子は認めたくなかったが一目惚れをしたようだった。あの鼻に。思い起こせば鼻の大きな人とお付き合いした事はなかった。卓司の鼻はどうだ。おまけにほくろまであるのだ。こんなに胸がときめくなんて初めてに違いなかった。もっと近くで見たかった。あの鼻に触れたかった。触れながら囁かれたかった。手に入れたかった。あの鼻を持つ卓司を。
口紅を引き直し気合をいれて化粧室を後にした。
卓司は会計を済ませてしまったようで、入り口の辺りで手を振っていた。慌てて卓司に寄ると出ましょう、と耳の後ろで囁かれた。奈津子の心拍は跳ね上がる。
レディファーストで店を出ると奈津子は自分の食べた分を支払いたい旨、卓司に話す。卓司は笑って奢りますよと言ったが奈津子は卓司にまた会いたいのだ。支払いたかった。
「それにしても」
卓司が口を開く。奈津子は鼻から目が離せない。
「僕はお眼鏡に適ったのかな?」
卓司は奈津子を見つめてくる。奈津子はずっと鼻を見ている。卓司が奈津子の肩に触れる。
「どうです、このあと一杯だけ」
断れる訳がなかった。先ほどより近い位置で奈津子は倒れそうだった。肩を支えながら卓司は指でそのほくろを触った。
「あっ」
思わず声が出る。もう奈津子は帰れなかった。
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