【読んだ本の記録】「自分とか、ないから。」東洋哲学を小学生にまで理解させる文章の凄み。
SNSで見かけた本を大体買う私。
数年前に取材に訪れた、岐阜県高山市にある民藝品店。
2階が施設図書館になっています。オーナーが本が好きなのだそう(ご自身も文筆活動をされています)。
そんな読書家のオーナーさんがSNSでおすすめしていた「自分とか、ないから。」を購入。拝読しました。
大変面白かったです。
帯に書かれている文章をそのまま引用すると、
こんな感じ。
どんな感じ???
ブッダ、龍樹、老子、荘子、達磨大師、親鸞、空海まで仏教の真髄を語る。
仏教の始まりから、その変革の様子をシンボル的な人物を主体に説明していく東洋哲学エッセイといったところ。
そう聞くと「なんか難しそうで読めないかも」と思わせておいて。
すごく読みやすくてするすると胃に落ちる感じでした。
多分ポイントは漢字の使い方。
思う→おもう
考える→かんがえる
人→ひと
など、普通は漢字をあてる表現をあえて(?)ひらがなにしてあって、なんか、普通と違くない?と思わせる。読みやすそうじゃない?と感じさせる。
さらに、文章の一部を抜粋してみると、
みたいな、ラップのような刻み系テキストで難なく脳に入っていく。
わかりやすい事例。龍樹の「空」をファミチキに例える妙。
そして一番良かったのは「例文のセンス」です。
例えば、ブッダの難解な教えを噛み砕いて広めた龍樹の「空」についての紹介部分。
「この世はすべてつながっていて、すべてフィクションである」という教えを説明するときに、ファミチキを事例として使っていたのです。
つまり、この世に会社とか自分とか商品が存在するのは「すべて言葉で定義しているだけの幻」だと。
それをファミチキを例に出して、
「ファミチキって鳥の死体じゃん。でもファミチキって名前をつけて包装すれば突然オシャレな物体になる。それが空」と表現してあるのでした。
「言葉の魔法」にかけられて、「これは○○だ」と思い込んでいるだけで。実態は土とか水とかいろんな要素がぐるぐる巡って「たまたまそこにある」だけ。
だから自分と相手の区別など本当はなく、「言葉で魔法をかけている」のだと。
ファミチキの「空」が小学生にも刺さる。
そして。
私が読みかけで机に置いていた「自分とか、ないから。」を、小学五年生の子どもが勝手に読んでいました。
普段、読んで欲しくて目のつく場所に置いてある「365日のベッドタイムストーリー」とか「モモ」とかには目もくれないのに。
勝手に「自分とか、ないから。」を手にとって、龍樹のところまで読んで「ママー、面白かった!」と言うわけです。さらに内容も理解していて、「世界はみんな一緒で、鶏肉の死体をファミチキって呼べばそう見えるだけ」という解釈もできていました。
さらに、読後に「会話の中に東洋哲学を織り交ぜる」テクニックが身に付く成果も。
例えば、
子「ママ、アンパンマンの歌って変じゃない。アンパンマンは君だ、とか言うじゃん。アンパンじゃねえし」
私「いやそれは、空の理論で言え正しいかもよ。アンパンマンは私」
子「それか!」
みたいな会話を成り立たせたのです。
すごすぎる。
小学生にも理解できるほど噛み砕いた表現力。
難しいことを難しくわかりにくく書くよりも、誰にでもわかるように伝えることの難しさよ。
それをここまで形にできるのがすごいと思わずにいられません。
後書きを読むと、完成までの道のりが長すぎて、あと密教の修行とか怖すぎて(崖とか)大変そうですが、でもそれがあっての本。
自分を捨てる無我の境地を探りながら、自己実現という反対の活動である本づくりを叶えたという、「無我と自我の両立」も一つの達成なのでは。
???
私の理解の精度は怪しいですが。
アンパンマンの会話の続きは、「ママ、アンパンマンってシャワー浴びてもいいの? 濡れたら力出ないんでしょ。お風呂入れないなら臭くない?」。
私「顔にビニール袋被せて入れるんじゃない?」
子「窒息するんじゃない?」
私「アンパンマンって呼吸するの?」
子「知らん」
でした。
終わり。