整形したら自分を好きになることができるだろうか。自傷がやめられるのだろうか。

私のまぶたは重い一重瞼。中学一年生のこの頃から約8年間アイプチやアイテープやらを施し、日々偽装二重をセルフ顔面工事の末、手に入れている。海には潜れないし、水系のアクティビティには積極的に参加したくないし、なんせ友達とのお泊りも億劫。化粧は落とせてもアイプチとカラコンだけは私の場合、はずせない。

高校に入学する前からプチ整形の話は出ていた。だが、誰かさんの反対のせいで話はどっか行き、少し肌が弱いので目が腫れたる度に、アイプチして肌が荒れるくらいなら手術してしまった方がいいという意見もちらほら出つつも、実際に実行されることはなく、大学四年生まで来た。

だが、ここにきて、やたらと母が二重整形に積極的になりだし、話がトントン拍子で進み、カウンセリングにも数回行き、予約も済ませ、あとは最終カウンセリングと手術日を待つだけの段階である。まぁ就職前の大学四年で、加えて全て授業がオンラインなので、ダウンタウンや節目的なことを考えるとちょうどいい時期ではある。

10代20代は瞼を糊でくっつけていても、割とみなやっているので不自然ではないが、むしろそこまでしないと外に出られない女の子が日本中に溢れていることは社会現象であり社会問題であるが、それはおいといて、瞼もどんどん伸びてたるみがでてくるし、年齢的にも何歳までできるか正直わからない。

母が私の二重整形を先導する運びとなった一番の理由は、やはり私が精神疾患を打ち明けたこと自傷がやめられないことにあるだろう。私がカッティングをする理由の一つに、自己肯定感や自尊感情が乏しいことがあり、だから自分のことを好きになれない大切にできないと母は考えていて、そのため、整形して少しでも自分の顔を好きになれれば、自分に自信がつき、自傷をやめられると母は思っている。

確かに自分のことを大切にできない自分に自信を持てない節はもちろんあるし、自分の顔面が好きではないが、果たして、目が数ミリ大きくなって瞼が一重から二重になったところで、私の自尊感情は高まるのだろか。そんなうまいこといくのだろうか。

そもそも、家族が小さいことから、かわいいねと言っておけば、今の顔面のままでも自信をもてたのではないだろうか。クラスメイトや見知らなぬ人に、ブサイクと言われなければ、今の顔面を嫌うことなく生きれたのではないだろうか。

小さいことからの積み重ねで築き上げられた自己肯定感や自尊感情が、たった2時間の手術でぐんと高まることはそうない。いくら少々目がおっきくなっても、自分のことを好きになんてそうなれるはずがない。

そもそもなぜ、たまたま一重に生まれた人間は、二重で大きな目がいいとする社会に自己を意図的に変形してまで合わせていく過程で、余計な意味を施されないといけないのだろうか。

あくまで二重整形は一重瞼を二重瞼にするための手術であって、自尊感情を高めるための手術でも自傷を止めるための手術でもない。加えてせっかくお金をかけて二重にするのだから顔の面積を減らして目を大きく見せるためにもっと瘦せようねなどといってくるが、私が二重に生まれていればそんなこと言われさえしなかったことだ。そういうところだ。そういう発言が私の自尊心を蝕んでいくのだ。根本原因はそこなのだ。そこが変わらないと私も変わらない。私の目の一部にメスを入れたところで、問題解決のメスを入れたことには今のままではならないのだ。

二重にして、私が自傷を止めれなかったら、また私の問題にさせられるし、二重にしたのに、痩せられなかったら、また私の体型を指摘しながらそういうところがだめだといってくる。問題はこの環境なのであって、私の小さな一重瞼が根本なのではない。

私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。