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ぼくを探しにー道徳の時間ー


何かが 足りない それで ぼくは 楽しくない 足りない かけらを 探しに行く

中学生の頃、学年主任の先生は怖かった。いつも不機嫌そうで、冗談を言っているのなんて聞いたこともなかった。みんなその先生に何か怒られないかヒヤヒヤしていた。そんな先生の担当科目は、「道徳」だった。それは私が最も楽しみにしていた授業。私は不機嫌そうに見える怖い先生の道徳の授業が、とても好きだった。

とても好きだった割には、今ではもう殆ど授業の内容は覚えていない。けれど、ずっと覚えているワードがあった。それは先生がいつかの授業で読んでくれた、ある1冊の絵本に出てくるワード。

ビッグ・オー と、かけら。何とも言えないタッチの絵も、頭の片隅に記憶していたけれど、タイトルが思い出せないでいた。

最近どうしてもそれが読みたくなって、記憶しているふたつのワードを頼りに検索した。そうしてすぐに辿り着いた絵本のタイトルは、『ぼくを探しに』と『続ぼくを探しに ビッグ・オーとの出会い』。アメリカ生まれの絵本だ。どうやら私は続編であるこのふたつのお話をごちゃ混ぜに記憶していたようだ。どうしても読みたくなったので、それならばと先日お仕事終わりに図書館へ寄ってきた。

今日はまず、『ぼくを探しに』についてお話したい。


だめな人 と だめでない人 のために

最初のページに書かれている一文。なんというか、ゆるくて温かい。遠い山奥もしくは離島の古民家で、ふんわりと握られたおにぎりと、やさしい味のお味噌汁で出迎えられたような。肩の力がスーッと抜けて、得体の知れない荷物までそっと降ろせるような。なんでも、どんな時でも、受け入れてもらえる安心感のような。そんなものを感じた。

これは、ひと口齧られたドーナツのようなカタチをしたぼくが、その部分にハマるかけらを探しにいくお話。

ぼくは、足りない部分を補いたい。ぼくは、足りないから楽しくないと思っている。ぼくは陽気に歌いながら、自身にハマるかけらを求めて、日々を歩む。道を進む。

そうして様々な出会いを経験する。かけらに出会う前に、天気を感じたり、お花や虫とも出会う。それでもぼくは、かけらを求めていた。自分にぴったりハマる、ぼくのためのかけらを。

ある日、やっとかけらに出会う。でも、かけらはぼくに向かって言った。

「ぼくはきみのかけらじゃないからね。誰かのかけらでもないからね。」

そのかけらに別れを告げて、またかけらを探して進み出す。いろんなかけらに出会った。大きすぎたり、小さすぎたり、尖りすぎていたりして、なかなかぴったりハマらない。ようやくハマったかと思えば、落としてしまったり、きつく咥えすぎて壊してしまったり。

そんな出会いと経験を繰り返して、やっとぼくは、ぼくのかけらを見つけた。ぼくとかけらはぴったりとハマって、ドーナツのようにまん丸になったぼくは速く転がることができるようになった。そうして、どんどんどんどん進んでいく。

しかし、速く転がるようになったら、花の匂いを嗅いで楽しむ時間も、虫とお話する時間もなくなった。歌さえうまく歌えなかった。歌を奏でていたぼくの部分に、今はかけらがいる。

「なるほど、つまりそういうことだったのか。」

と、ぼくは何かに気付いて、かけらをそっと降ろす。そうして少しかけたカタチのぼくに戻って、また転がり始める。そして歌う。かけらを探している、と歌う。ぼくはまだ探している。ぼくのかけらを。


要約すると、こんな感じである。当時このお話を聞いた私は、凄く心に受け取るものがあって、思考を巡らせた。

当時の私は、初めからぼくにかけらなんて必要なかった。欠けているからこそぼくなんだ。そして誰かのかけらにはなりたくないな。と思ったことを覚えている。自分をぼくに当てはめてみて、そう思いたかったのかもしれない。思春期真っ盛りで、自分が何者なのか分からなくて、愛されているのかも分からなくて、学校でも家でもモヤモヤモヤモヤしていた頃だった。


ぼくは、不完全だったことに物足りなさを感じていたものの、いざ完全になってみると、お花の匂いを嗅ぐ時間もなくなり、虫との交わりも必要なくなって、今度は完全であることへ物足りなさを感じるようになる。不完全だった頃の刺激や自由を求める。

人間もそうだと思う。もっと、と求めながら生きてみても、もしも私がひとりで何でも出来てしまったら、或いは何でも手に入れてしまったら、誰かとの関わりや誰かの助けがなくても生きていられることを、つまらないと思うだろう。その都度、誰かと心を通わせて、助けられてこそ、私は完成する。私ひとりで私が完成することなんて一生ないのだと思う。

そして、かけらで在っていい人なんていない。誰かが”ぼく”で、誰かは”ぼくのかけら”だなんて、そんなことはあってはならない。ぼくのために生きているかけらはいない。

それでも、ぼくはかけらを探す。私たちも”何か”を探している。上を目指したり、ここではないどこかを目指して、その過程でまた違う何かを求め始めたりもする。ないものねだり。生きることは、そういうことなのかもしれない。だからこそ、生きられるのかもしれない。ころころ転がりながら進んでいく。

恋愛にも、仕事にも、人間関係にも、そして人生そのものにも、当てはまることだなと思った。ぴったりのかけらに出会うまでにいくつもの出会いを繰り返したり、やっとはまったと思ったかけらを失いたくなくてあまりに強く咥えて壊してしまったり、不器用なりにそうやって経験を積みながら、時々止まりながら、後戻りしたりもしながら、それでも進んでいく。進んでいける力をぼく自身が持っている。それだけで十分なのかもしれない。それがすべてなのかもしれない。今の私は、このお話に触れてそう思った。


このお話には、続編がある。しかし、これ以上書くと文字数が大変なことになってしまうので、そちらはまた次回の記事で。


じっくり読んでいただけて、何か感じるものがあったのなら嬉しいです^^