詩集 詩学のすすめ
【note版への序】
本作の目的は、七五調をメインとする定型詩で詩学を語る事にあります。だって、ほら、
「詩の事を語るのに散文で述べるなんて無粋じゃないか」
と思いませんか? 実際、西洋では詩の解説をする詩を作る詩人がいたりします。日本語でも同じ事を試みていけない訳がありません。
note版では原文の他、欄外に注釈を追加していきます。
【詩学ことはじめ】
そもそも詩学って何だろう?
詩を読むための学問だ。
アリストテレスのPOETIKあたりが有名所かな。
ローマも独も露も英も、古代ギリシャの伝統を
受け継ぎ、伝えて、現代の詩学の土台になっている。
西洋言語だけでなく、漢詩も詩学を持っている。
格式論じた教科書や、鑑賞本も数多く、
読むのも書くのも困らないラインナップが揃ってる。
おこちゃま向けの詩のサイト、見れば詩学に基づいて、
書き方読み方教えてる。無いのは日本のサイトだけ。
何で無いかと言うならば、詩が無いからに決まってる。
日本に詩が無い事なんて、奈良時代の昔から、
知識人には常識だ。今、詩と呼んでいる物は、
明治時代の文人が残した、ただの試作品。
だから海外サイトでも、口語自由詩は出てこない。
和歌に俳句に都々逸の書き方ページは数あれど、
非定型詩は詩としては認識されてないかのよう。
日本人だけ知らないが、日本語定型詩を好む
海外の人、多くいて、伝統詩型をふまえつつ、
新たな詩型を編み出して、独自の世界を作ってる。
詩学は言葉のレシピ集。無くても十分詩は書ける。
けれども二千年分の歴史の中で先人が
培ってきたノウハウを、利用しない手は無いよ。
詩人個人が単独で、少しばかり悩んでも、
出せる答えはしれたもの。
ゲーテは言った。
「愚かな人は、よく思う。これは自分が初めて考えた、
凄いアイデアじゃないかと。しかし生憎たいていは、
1000年以上もの昔、賢い人が思いつき、
もっと良い案残してる」
とかなんとか。
偉大と言われる詩人ほど、古典を読めと薦めるが、
それもこうした訳による。夢夢忘れる事なかれ。
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詩学とはどういうものかを紹介する回です。日本人には馴染みがありませんが、詩を読む為の学問です。西洋や中国と違って、日本語の詩は読み解くためのルールなど存在しない無秩序世界なのですから当然です。
しかし、多言語と比べると、母国語がどんな特徴を持っているかが判ってくるのも確かで、海外の詩にあって日本語の詩にないものを追求するのもまた道のひとつである事が見えてくるのです。
詩学のある言語圏の人には、他所の詩を学ぶ柔軟性があり、取り入れるのも早い様に見えます。詩の世界でも、「日本語はこれこれだから」と理由をつけて何もしないのではなく、もっと色々とチャレンジしてよいのではないかと思います。
【詩学の役割】
詩学詩学と言うけれど、なんぼのもんじゃと語る人。
日本の詩人に多いのは、決して気のせいなどじゃない。
元々口語自由詩の、書き手の多くは素人で、
勉強嫌いで傲慢で、やる気もないから当たり前。
詩学は詩を読む学問だ。だから詩学を中心に、
書き手と読み手は繋がって、一緒に世界を創り出す。
それを拒む人は皆、独りよがりの独断で、
好きな言葉を並べては、自己満足に浸ってる。
盛りのついたけだものが、思いのままにうぉううぉうと
吠えたてるのと変わらない。そう言ったのは朔太郎、
口語自由詩提唱者。理想に破れて晩年は、
文語定型詩にすがり、後輩からも揶揄された。
詩学が唱える詩のルール。勉強しない書き手ほど、
縛りと言って忌み嫌う。しかしホントにそうだろか。
スポーツ、音楽、絵画にも、ルールや基本が存在し、
みんな厳しい修練に、耐えて実力つけてゆく。
ルールは縛りの道具じゃない。ルールがあるからみんなして、
詩境を分かち、高め合い、ホントに良いモノ作り出し、
書き手も受け手もお互いが、同じ土壌で分かり合う。
ルールのせいで書けないと、言うのは工夫をしないだけ。
創造力は縛れない。ルールでしぼむ位なら、
いっそなんにもない方が、悩まなくて良いだろう。
ルールは詩作を整える。ルールにすがればいっぱしの、
詩を書くことも夢じゃない。しっかり詩学を知り抜いて、
良い詩を沢山書いてみよう。1000年先まで残るかも。
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詩学が言うところの様々なルールは詩を整える為のサポーターのようなもので、創作に縛りを入れる為のものではありません。また、それがあってこそ読者は詩人の思いを正しく読み取る事が出来ます。
勝手気ままに書いたものは、自由なのではなく単なる無秩序でしかありません。自由が良いと言って、文法や単語の意味をすべて無視して言葉を並べたら、誰が理解してくれるでしょうか。
【どうして西洋の真似を?】
それはそもそもはじめから、西洋言語の詩みたいな
日本語の詩はどうすれば書けるか悩むところから、
今の流れは始まった。だから西洋詩はすべて、
日本語詩から見てみれば、元祖のようなもののはず。
であるにも関わらず、気にも止めない人ばかり。
西洋詩の事知らないで、自分だけしか分からない、
「詩」しか書けない者ばかり、増えて本質見失う
日本語の詩の将来は、お先真っ暗間違いない。
と最近までは思ってた。しかし世の中なかなかで、
まんざら捨てたものじゃない。新たな担い手登場し、
希望の光が見えてきた。彼らは日本の外にいて、
真摯に勉強続けてる。西洋言語はお手の物。
詩学に馴染み、韻を踏み、明治の文士が目指してた、
形に近づく試みも、今までよりは進むはず。
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近現代の日本語の詩は明治以降に西洋の詩を輸入しようとして始まったものです。しかし、一時的に定型の取り込みが試みられた事はありましたが、結局その試みは放棄され、日本語の詩学が確立する事はないまま、現在に至っています。
しかしながら、ヒップホップの世界で日本語ラップの担い手たちが従来とはひと味違う押韵方法を編み出し、日本語詩でも脚韵を踏む事が当たり前に行われる様になりました。とはいえ課題はまだまだ多く、日本語の一般的な詩のスタイルを変える程普及はしていない様に見えます。
【モーラの詩学】
モーラと書いて「拍」と読む。別に決まりじゃないけれど、
そういう意味になるらしい。西洋言語で詩を書くと、
音節ベースで韻律を整え詩行を編んでいく。
母音と母音の間には、複数子音を入れられる。
子音はリズムと表情を、言葉に与えるスパイスだ。
それがごくごく当たり前。英独仏露、みんなそう。
西洋言語はこのほかに、長短強弱高低と、
豊富な音の装飾を、詩の全編に散りばめる。
一方我らが日本語は、入る子音はひとつだけ。
多少の例外あるものの、ほとんどこれで済ませてる。
母音と子音がひとつづつ、並ぶだけだとどうしても、
抑揚がなく平坦で、一本調子になりがちだ。
日本語の詩の律動は、モーラベースで作られる。
いっすんぼうしは7モーラ。てんきよほうは6モーラ。
俳句は5−7−5モーラで、7−5モーラが4行で、
今様体の出来上がり。7−7−7−5モーラなら
粋な都々逸名調子。だがこれからは、これだけじゃ
単なる懐古趣味なだけ。色々工夫をしてみよう。
合計モーラはそのままに、モーラの配分変えながら、
新たな詩行を作ったり、既存のリズムを組み合わせ、
別なリズムを作るのも、意外性の発現に
一役買えるかもしれない。
ところで…
今書いている文体は、7−5が2つで1行で、
それが2行で一聯の、変則的な今様だ。
一定以上の長さがあれば、句長を操作する事で、
わかりやすい律動を持った詩行が出来るはず。
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「拍」と訳される事が多い「モーラ」について。英語や中国語の詩は一般に音節で区切りますが、日本語はモーラで区切ります。例えば英語のスクールでは音節はひとつ。skう~lのような感じで、母音はう~(長母音)がひとつだけですが、日本語のモーラは「す・く・う・る」で4モーラになります。この違いが両言語のリズム感の違いになります。
これは優劣の問題ではなく、それぞれの言語的な特徴の話です。英語のクリスマスはkrいsmあsで2音節。日本語はく・り・す・ま・すで5モーラ。英語は母音間に複数の子音が入ったり、母音にも長母音や重母音があったりして普通の文章でも結構起伏に富んでおり、リズミカルです。日本語には長音記号はありますが長母音はなく、もちろん重母音もなく、子音が複数続くのはnやkの後ろに小さい「ゃゅょ」が続く場合位しかありません。このため平坦で一本調子に聞こえます。
日本語の韻文はこの特徴をよく示していて、音の響きではなく、音の数を揃える事で定型を構成します。七五調とか八六調とか言う具合にです。この点をよくふまえた上で詩を作ると、読んでも聞いても心地よいリズミカルな作品になります。但し、余りにもそれだけを追求すると、言葉遊びと言われてしまいます。
どのように言葉を選び、繋ぎ合わせれば、良い内容で美しい詩になるか。それこそが詩人の腕の見せどころです。
【歌論】
日本の言語に詩は無いが、昔は和歌というものが
独自の伝統築いてた。現代和歌は大衆に、
媚を売るのに忙しく、和歌の精神失われ、
見るかげもなく荒んでる。
詩には詩学がある様に、和歌にも歌学がありまして、
和歌の要諦まとめてる。
歌を詠むのに大切なポイント3つ挙げるなら、
心と言葉と技術力。どんな心を歌うのか、
どんな言葉を選ぶのか、どんな技巧を使うのか。
3つすべてが揃ったら、はじめて優れた歌になる。
心だけでは舌足らず。言いたい事が分からない。
言葉だけでは嘘っぽい。軽薄すぎて読む気失せ、
技巧だけでは大袈裟で、わざとらしさが鼻につく。
心が無いと上辺だけ、共感するには至らない。
言葉が悪いと思いだけ、強くて退いてしまいそう。
技巧無ければ拙くて、頭が悪いと思われる。
心言技(しん、げん、ぎ)の三拍子、
揃って初めて歌になる。
いちど試してご覧あれ。
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日本語には詩学は存在しませんが、古来から受け継がれてきた歌学には詩学に通じるものが沢山あります。中でも良い和歌を作るための心得として「これについて詠みたい、という心」「この言葉を使いたい、という言葉選び」「こう表現したい、という技法」の3つは基礎になるもの、とされています。更に、歌合では昔に誰がどう詠んだ、という故事や典故に関する知識の深さまで視野に入れた技量が試される事が無名抄などから伺い知れます。
【西洋詩の内容】
西洋の詩は色々だ。凡そ書けない物は無い。
恋愛、冒険、歴史モノ。教科書、論文、流行り歌。
手紙や批評もお手の物。ドラマの脚本まであるが、
それでもマンネリには勝てず、破調と破格を繰り返し、
秩序と調和を放棄して、求心力を失った。
書き手と読み手の間には、ここにも乖離が存在し、
読者の理解が及ばない、遠い世界を描いた詩が
多く出回る事になり、未だにそれが続いてる。
日本の詩型は大人気。小学校でも教えてる。
短歌と俳句は勿論で、長歌、川柳、都々逸に、
施頭歌、連歌も知れ渡り、独自の発展遂げている。
これも詩学があるからだ。他国の詩型を分析し、
自国の詩型に当てはめて、応用効かせて馴染ませる。
最近知った事だけど、sijoという名の詩があるが、
英語はそれも取り入れた。元は朝鮮民族詩。
一編3行構成で、自由度高い韻律だ。
情緒豊かに情景や、詩人の思いを詠み上げる。
英語のsijoはシンプルで、既に絵本も出来ている。
3行目にはオチがつく。そこのヒネリが勘どころ。
日本じゃ時調として知られ、研究書だってあったのに、
今じゃすっかり英語詩に置いて行かれてしまってる。
イタリア語の詩もなかなかだ。特殊な韻律作るため、
古語の活用取り入れた、正式作法があるらしい。
このほか興味は尽きないが、話の続きはまた今度。
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西洋詩の内容は古来実に様々で、更に外の言語圏の詩も取り入れてその多様性を高め続けています。詩学があるからこそ出来る事で、詩学が無い日本語詩でそれを行うには詩人個人が自分流のひとつとして編み出すしか術がありません。しかも、それはあくまでも個人的に作り出した表現方法のひとつでしかなく、日本語詩学の内容に組み入れられる事は無いのです。ま、詩学そのものが無いのでそれは当然の事です。このようにして、狭い世界観のまま日本語詩は世界から取り残されていく事になります。
【賛美歌】
街に流れる賛美歌が、街行く人を駆り立てる。
かつて多くの賛美歌の、翻訳進めた時代には、
調べに乗せる工夫やら、歌詞の格調高くする
あまたの工夫と情熱の、ありったけをぶつけてた。
賛美歌の訳は日本語の表現力を育んだ。
今じゃ季節の風物詩、百九番は有名だ。
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賛美歌109番。ご存知「きよしこのよる」です。
【象徴詩】
言語の意味は置いといて、別な何かを感じ取れ。
象徴、印象、ニュアンスと、言い方色々あるけれど、
言葉の示す先の先、つまるところは感性の、
おもむくままに描くもの。だから、読み手も詩心と
創造力を持たないと、これを読むのは難しい。
作者が描いたイメージと、読者が感じた印象が
同じであるとは限らない。黙読、朗読、映像や、
音楽さえも動員し、イメージ作りに役立てる。
書き手も読み手も詩人だな、と思う私は不調法。
言葉の意味に囚われず、感じる処がゴールなら、
訳詩が抱える問題は、ここでは気にする事は無い。
言語の壁を越える詩を、期待させてくれそうだ。
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黎明期の日本の詩壇にも影響を与えたフランス象徴派の創始者とされる人物で、エドガー・アラン・ポーに注目し、自身も大きな影響を受けた事が知られています。
【長歌】
新体詩ってよく見ると、とても長歌に似ているね。
最初に作った人たちは、西洋の詩を受け入れる
日本語語彙が無い事に、気づいて半ばかりそめに
文語と漢語を借りてきた。格調高い韻文の
雰囲気伝えるその効果。一時は絶頂極めたが、
「これは長歌じゃないだろか」 誰かが気づくとたちまちに
人の興味は薄れゆき、書き手も読み手も減っていき
過去の遺物に成り果てた。しかし英語のサイトには、
長歌の使い手健在で、他の伝統文芸と
並んで人気を博してる。
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長歌と短歌の違いについて、下図のように、五の句で始まり、七七の句で終わる基本枠の中に、七五句が一回登場するのが短歌。二回以上登場するのが長歌、という説明をどこかで読んだことがあります。
短歌 五 七五 七七
長歌 五 七五 七五 七五・・・75 七七
真偽はともかく、わかりやすいので私はこれを肯定することにしました。
【風刺詩】
古代ローマの昔から、風刺のための詩はあった。
古代中国においても、楽府という名のお役所が、
流行りの歌を調査して、民の評判探ってた。
日本の国にも落首(らくしゅ)あり。
落書(らくしょ)で述べる内容を、詩歌に託して詠んだもの。
今の時代は川柳の人気が高いが内容は、
軽薄過ぎて味わいに、欠ける印象拭えない。
昔の日本にまだあった、ウィットに富んだユーモアや
教養踏まえた皮肉など、単なる嫌味に終わらない
奥の深さは減衰し、露骨な表現満載だ。
文化も知的な洗練も、感じさせない稚拙さが、
わかりやすいと呼び名変え、蔓延している貧しさに、
些か嫌気も感じるが、それを憂える声はない。
まともな風刺が廃れたら、ますます文化の退廃が
進んで暮らし難い世に、なるかと思うと気が滅入る。
【諷喩(ふうゆ)詩】
中唐詩人の白居易は、社会や政治を批判して
諷喩詩書いて息まいた。熱血官僚白居易は、
理想に燃えて文筆を、振るってみたが現実の、
唐帝国の抱えてる、矛盾や腐敗を正すなど、
とうていかなうはずもなく、閑適詩作に移行した。
若い頃には「官僚は、七十過ぎたら引退だ」
などと気勢を上げてたが、自分は七十過ぎてても
現役勤めにしがみつき、矛盾の体現者になった。
諷喩詩やめててよかったね。
西洋にもある諷喩詩で、馴染みやすさじゃイソップの
寓話を詩にしたフォンテーヌ。お馴染みイソップ寓話を
エスプリ豊かなフランス語、駆使して見事に編み上げた、
珠玉の詩集は訳されて、世界で愛読されている。
【日本語ソネットの試み】
ソネット作りは大変だ。4、4、3、3、14行。
脚韻踏んで聯作り、起承転結並べても、
それで終わる訳ではない。中身の問題があるからだ。
これまで多くの作品で、多くの事が語られた。
初期の典型恋愛詩。愛情全般扱って、
さすがに迎えた倦怠期。マンネリ、ジリ貧、乗り越えて
生まれ変わったソネットは、内容豊富でパターンも
変化に富んで面白く、新たな存在感を得た。
日本語だから、脚韻を踏むのは骨が折れるけど、
定型使う醍醐味は、使える語彙の意外性。
自力じゃ使う事が無い言葉を選べる事にある。
慣れるまでにはシソーラス、使えば拡がる表現の
世界の豊かさ味わって、ついでに語彙も養える。
14行で何を書く? 14行は問いかける。
【英雄詩型】
西洋詩には英雄をドラマチックに描き出し
長編詩として編み上げた叙事詩という詩があるという。
叙事詩のテーマは英雄の波乱に満ちた生涯と
悲劇的な終焉を韻律に乗せ謳うこと。
ダクテュロス・へクサメトロスは、多くの叙事詩で使われた
叙事詩の詩型の定番だ。6つの詩脚を持っていて、
その韻律は荘厳で魂の奥まで響く。古代ギリシャに始まって、
古代ローマに受け継がれ、風刺詩、書簡詩、物語、
理論書、劇の、シナリオも、書かれる位普及した。
ダクテュロス詩脚の韻律は、長を一つに短二つ。
長短短が一組で、これを6回繰り返す。
短が2つで長一つ、置き換え可能な場所もある。
英語の叙事詩は弱強の五つを合わせて行となす、
ヤムブス・ペンタメトロスが、叙事詩向きな一般形。
西洋詩では音節の強弱長短組み合わせ、
それを並べて行と為し、更には行に装飾を
施し緻密で秀麗な、詩歌が沢山作られた。
叙事詩の他にもう二つ、英雄哀歌とバラッドも
忘れちゃいけない定番だ。哀歌は日本じゃエレジーと
呼ばれて親しまれている。悲しい歌という程の、
意味しか持たないエレジーは、れっきとした詩の定型だ。
ヘクサメトロス1行と、ペンタメトロス1行の、
ペアを何度も繰り返す、これがヒロイックエレジーだ。
バラッド詩型は色々だ。2行一組繰り返し。
共通なのはそれ位。8音節の1行と、6音節の一行や、
ヤムブスペンタメトロスを、2行続ける型もある。
脚韻を踏む形式も、同一、交互、様々で、
自由なパターンを使うのも、脚韻無しも構わない。
あ、そうそう、忘れてた。
名前は似てるがバラードは、別物なのでご注意を。
【何はともあれ七五調】
七五調は、万能だ。単調、マンネリ、語呂合わせ、
陰口叩く人は人。バリエーションを混ぜ込んで、
華麗に決めよう七五調。一つで一行十二音。
二つなら二十四音。西洋詩型もなんのその、
何でも詩行は七五調。日本語だから出来るワザ。
英語にだって定番の、弱強五歩格あるんだし、
何も気にする事は無い。七五調を押し通せ。
【蕪村の俳詩】
蕪村が名付けた俳詩とは俳諧連歌の基礎の上、
漢詩の表現取り入れて、独自の世界を編んだもの。
その叙情性は繊細で切ない思いを掻き立てる。
発句に漢詩に訓読文。自在に繋げて新鮮な
詩情を描いて見せたのに何故か受け継ぐ人はなく
新しい詩がこの国に芽吹いてくるのは明治まで
時代は待つ事になった。蕪村が芭蕉と会えてたら
日本にも詩が出来ていたかもしれないと思われる。
【ルバーイイ】
ペルシャの詩型のルバーイイ。典型的な四行詩。
AABAパターンの脚韻確かな名調子。
お題は哲学人生や自然や宇宙も織り込んで
何でもありのルバーイイイ。広くて深い四行詩。
【ルバイヤート】
ルバイヤートはペルシャの詩、ルバーイイの複数形。
二つ以上のルバーイイ、連ねて作る完成形。
オマル・ハイヤーンという詩人。最も有名、人気者。
夢想家、酒好き、哲学者。賛否分かれる奔放系。
【ロンドー】
フランス発のロンドー(Rondeau)です。音楽のロンド(Rondo)は別物です。
8音節で1行を作って脚韻踏ませます。
2パターンからなる押韻を織り交ぜながら、15行、
5行、4行、6行の3つの聯を持ってます。
最後のニ聯の最終行はリフレイン行になってます。
全て通して見るならは、AABBA AABC AABBAC。
リフレイン行の正体は第一行の前半分。
だから前後のつながりを合わせて書くのが大変です。
【トリオレット】
トリオレット(Triolet)は8行詩。13世紀のフランスで
生まれたらしいと思われる。押韻パターンは2種類で
リフレイン行がふた組もあるのでちょっとくどいかも。
1、3、7行がひと組め。2行、8行がふた組め
4行目だけは少しなら言葉を変える事もある。
だから押韻パターンは、ABaAabAB。
大文字同士は同じ行。小文字は韻だけ同じ行。
実質5行で勝負する。文章力が試される。
実例がないとわかりにくいので2つ上げておきます。
両方とも実験的に作った2012年の作です。
決り文句の配置は難しいです。
『日本語トリオレット練習 - 石』
真冬の 驟雨に 追われつつ
慌てて 過ぎ行く 道すがら
路傍に 転がる 石ひとつ
真冬の 驟雨に 撃たれつつ
濡れるに まかせて 止むを待つ
孤高の 姿を 愛でながら
真冬の 驟雨に 追われつつ
静かに 過ぎ行く 道すがら
『日本語トリオレット練習 - 残業のち雪』
残業はやめだ
さっさとかえろう
外は大雪だ
残業はやめだ
外は寒そうだ
暖かくしよう
残業はやめだ
さっさとかえろう
【時調(Sijo)】
朝鮮民族の定型詩。英語じゃSijo(しじょ)と言うらしい。
戦前日本も研究を進める人は多くいた。
時調という名は短縮形。「時節歌調」と元は言う。
英語版も造られて国際詩型の仲間入り。
三四調で3行がひとつの典型なんだけど
四四調も許される。五音あっても大丈夫。
音の数なら俳句より規制がゆるくて自由向き。
初章、中章、終章の3行構成で造られる。
中章抜き(*1)も許される。初章だけ(*2)でもアリという。
子どもに向けたもの(*3)もある。
終章はオチを含ませてピシっと締めて終わらせる。
(*1) 両章時調といいます。
(*2) 単時調といいます。俳句より短いです。
(*3) 童時調といいます。
最もよく造られるのは定型通りの平時調です。
残念ながら私にはまだ実作はありません。
【リメリック(Limerick)】
5行の短詩のリメリック。ユーモア主体のリメリック。
4行目までで強烈なジョークを飛ばすよリメリック。
人、物、土地をからかった話がメインのリメリック。
名前を韻に織り込んで巧く綴るよリメリック。
1、2、5行は三歩格。3、4行は二歩格で
押韻法はAABBA。最後はオチだ、リメリック。
うまくオチればしめたもの。こばなしポエムだリメリック。
サンプルとして拙作のリメリック詩を載せておきます。
定義とは裏腹に音数はめちゃめちゃですが、
2020年9月20日、米国サイトPoetrySoup の面白い詩特集で取り上げられました。
『Trial』
My boss is called Mr. Trials
He always tries something with plenty of materials
But usually it is hard to keep suppliance
Even strong intention supports continuance
Finally he gets failure with bitter memorials
私はまだ日本語で書いた事はありません。
【俳句と川柳は逆のもの】
連歌の先頭、発句だけ取り出し独立させてみた。
明治の文豪正岡子規が「俳句」と名付けた張本人。
その名は世界に広まって、今じゃ誰もが知っている。
連歌は発句の後ろ付け。七七つけて歌にする。
さらに続ける五七五。ここから季語は不必要。
ただただこれを繰り返し、連歌の体裁
一方七七を題として、前の句つければ前句付け。
ヒットしたのは江戸時代。柄井川柳(つかいせんりゅう)が立役者。
「排風柳多留(はいふうやなぎたる)」が有名。
以来川柳と呼ばれつつ、時代を超えて詠みつがれ
今でも人気を博してる。ナントカ川柳、色々だ。
俳句に季語があるのは連歌では発句が発句である事を示すため、
季語を入れる事があったから、という説があります。
川柳に季語がないのは俳句から取り去ったのではなく
川柳がもともと前句付け、つまり、七七をオチのあるお題とし、
その前の五七五を作り、合わせて歌としてその完成度を競う遊び、
から出発したからです。
音数は同じですが、成り立ちは逆、という話でした。
【漢俳(かんぱい)】
漢俳は、漢詩で俳句を
作るもの。平仄、脚韻、
決め事は、日中一緒に
考えて、学会だって立ち上げた。
日本人には知られてないけど。
反歌
いにしえの 和漢聯句じゃ 五言句が
連歌の中に 入ってたのにね
中国の お偉い人が 来日し、
漢俳作って 披露したのに
日本の お偉い人は 返礼が
出来ない無粋 披露しただけ
連歌では和漢聯句といって、漢詩の五言句を混ぜる、という
作法がありました。蕉門の連歌にも載っています。句の入れ方は
決まっており、脚韻も踏むという本格的なものです。
だから漢俳ももう少し定着しても良いと思うのです。
漢俳作例)昔正月年賀に作った一首
ピンインを読むと俳句風のリズムを感じとれます。
初句「中」と三句め「同」が韻字です。
<<簡体字>>
Jiāguóruìyúnzhōng。Rénshēngyīmèngfúshēngshì,Chūnguāngwàngǔtóng。
家国瑞云中 人生一梦浮生事 春光万古同
<<繁体字>>
家國瑞雲中。人生一夢浮生事,春光萬古同。
参考:<<訓読>>
家国(かこく)瑞雲の中(うち)
人生 一夢 浮生(ふせい)の事
春光萬古に同じ
【都々逸】
川柳作りは江戸時代、町人文化を盛り上げた。
ところで四世川柳が排風狂句と呼んだ頃、
登場したのが都々逸だ。作者は都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)。
江戸の末期に大流行。元は「名古屋(*1)」か「よしこの(*2)」か。
七七七五、定型詩。口語で綴る粋な歌。
(*1)名古屋節のことです。同じ詩型です。
(*2)よしこの節のことです。同じ詩型です。
他にも同じ詩型で、いわゆる甚句形式の民謡などが、多数あります。
サンプルを対句で。
権利、権利と騒ぐ奴ほど人の権利を踏みにじる。
自由、自由と騒ぐ奴ほど人の自由の邪魔をする。
【俳諧の連歌】
伝統的な連歌だと雅(みやび)のみしか歌えない。
それじゃ窮屈、退屈だ、もっと色々とりいれたい。
そんなこんなで、滑稽な話題や漢語もアリにした
俳諧連歌の登場だ。俳諧、すなわち滑稽な
内容織り込む連歌から、芸術的な文学を
目指した芭蕉の志。江戸時代には流行し、
芭蕉の後も大勢の宗匠が活躍しまくった。
雅(みやび)以外の語句もアリ。お題も自由に選べます。
どれだけ連ねるかというと、伝統的な百韻の
他に三十六歌仙、さらには五十韻もある。
現代俳諧連歌では、十四の句をまとめあげ、
脚韻つきのソネットを、作っていたりもするという。
五七五行と七七行、モーラの数は変わるけど
きちんと脚韻踏んでいる正式版のソネットだ。
脚韻踏める詩人など、ほとんどいない現代詩。
勉強嫌いで努力せず、我流を貫くだけだから、
創意も工夫もありゃしない。色々言い訳してるけど、
伝統文芸サバイバル。その頑張りに乾杯だ。
現代詩が口語自由詩と称していたころ放棄した日本語詩の定型と脚韻の
問題は、日本語ラップが一応の回答を出した、と思っていたのですが、
数百年来の伝統文芸である連歌の系統に組み込まれてソネットまで再現
していたことは驚きでした。
ちなみに古代ギリシャの叙事詩でよく使われる六歩格は、英語では五歩格
に置き換えられて訳される事が多いです。英語でも六歩格の再現は困難な
んですね。西洋でも大昔の詩では脚韻を踏む事はなく、中世以降に根付い
た技法なので、日本語詩も日本語詩独自の詩型に置き換えて和訳すれば良
いと思うのですが、残念ながら現代詩には定型はありません。西洋詩や漢
詩のように、どんな入門書でも等しく同じ内容で紹介される様な、共通の
詩型というものがない、というよりそもそも日本には歌論や俳論はあって
も詩学がない、のでこれは当然の結果です。現代詩はすべてが詩人だけが
理解出来る我流の無定型詩または散文詩です。このあたり、今後の発展に
期待したいところです。1000年位はかかるでしょうけど。
サンプル:脚韻つきの徘徊の連歌風
アンモナイトの夢
ぬばたまの 夜に佇む 博物館
宴の夜だ、自由空間
百年に いちどの祭り もう習慣
いつもの面々 いざ、常習犯
負けられぬ アンモナイトも 作れ集団
一気に晴らす 欲求不満
【琉歌】
八八八六の 韻律を持つ
琉球古来の 定型詩だ。
七七七五の 韻律有する
都々逸詩型と よく似てるが
各句がそれぞれ 一文字増えてて
使った感じも ちょっと違う。
琉歌の紹介を琉歌で書きました。
【HAIBUN】
俳文だけど、英語だとHAIBUNというものらしい。
2つの詩型のコラボだと、説明されることがある。
俳句は分かる、もうひとつコラボするのは何だろう。
驚く事に正体は、散文詩だということだ。
俳句と一緒に散文詩、合わせて作る新詩型。
元をたどれば唐宋の、漢文、和歌や、漢詩など、
典故織り交ぜ風流を極め尽くした文だった。
西洋人にしてみれば、散文詩にも見えるだろう。
内容的には感覚を、論理立てより重んじる。
芭蕉は風雅を目指したが、也有(やゆう)の飄逸(ひょういつ)、滑稽も
合わせて二本、両柱。人気を分けて栄えてた。
明治になって子規門下、高浜虚子があらわした
『新俳文』も一応は俳文としてくくられる。
英語圏では作品の世界は更に拡がった。
中世宮廷バラードの伝統があるからなのか、
ラブソングだってお手のもの。風雅や滑稽だけじゃない。
日本にはない新ジャンル、切り拓くのがHAIBUNだ。
西洋文化と日本の詩型のコラボの完成だ。
HAIBUNは俳文由来の詩型ですが、
散文+俳句ではなく散文詩+俳句、
として複数の英語の詩投稿サイトで説明されています。
元々の俳文には唐宋時代をお手本とする漢文の四字句、
和歌や漢詩の典故をちりばめ軽妙洒脱、飄逸滑稽を主軸としながらも、
含蓄のある文章を綴る、というスタイルだったため、
西洋の人から見たら散文の部分も詩的に見えたのでしょう。
散文詩とは、文体だけ見たら詩なのかただの散文なのか、
区別がつかない詩のことですから、
現代日本で「詩」と呼ばれているものがほぼすべて該当します。
ちなみに「詩学のすすめ」本文は各行のモーラが一定数、
あるいは一定数を維持しようとする意図が明確なので、
韻文といいます。
七五七五行や、七七七五行が混在しています。