主役はみんなの”生きづらさ”と”個性”だと思う―厨房のありす―
『厨房のありす』というドラマにハマっている。
(日テレ系、毎週日曜10:30~)
主人公の八重森ありす(門脇麦)は自閉症スペクトラム(ASD)、化学がすきな天才料理人。
父親の心護(大森南朋)がゲイであること、
ありすの店に転がり込んでくる住みこみバイト希望の酒江倖生(永瀬廉:私の推し)は住所不定、
ありすの親友が元ヤンの三ツ沢和紗(前田敦子)、、、、、、
なんだか盛りだくさんだが、
”ハートフルミステリー”
ということが私の希望となり、推しが出演するドラマが安心して観られる、とたのしみにしていた。
(悲惨、重すぎる、グロテスク、心抉られる系はどうしても無理な鬱病患者)
実際に1話から観ているが、本当に心があたたかくなる。やさしい登場人物が多くて、かつ得るものが多く考えさせられ、学びがある。そして、ただTVerでなんとなく流していても穏やかで、心にいい。結構、私の今のメンタルには心地よい作品だ。
というか、ドはまりしている。
自閉症をテーマにしたドラマは過去にもたくさんあったが、
何かが違う。
門脇さんの演技が素晴らしいこと、周りの登場人物があたたかいこと。
それもあるのだが、
”私の知っている自閉症って、こういうことなのか?”
”こういうことってできたっけ?”
と思うこともある。
深く関わったことがないだけかもしれないので、調べてみた。
以下、なるほどと思ったポイント
・『ASD(自閉スペクトラム症)』には自閉症、アスペルガー症候群(言葉の遅れなし)などが含まれていること
・それぞれ違うが、特性が共通している部分があること(対人関係の難しさ、こだわりの強さなど)
・”虹のようにさまざまな色が含まれる一つの集合体として捉えようとするのが「自閉スペクトラム症(自閉症スペクトラム障害)」という考え方です。”という表現。
同じ障害や病気でも、ひとりひとり症状は違うもの、ということは、私も鬱病という精神疾患を治療しているため、わかるつもりだ。
私より先に鬱病を発症している母と、私は症状が違う。でも、わかりあえることも多い。
また、昨年、ごたごたの渦中にあったとある芸能事務所の元社長がパニック障害を明かしたが、飛行機に乗ったという話が出たときに「飛行機に乗れるなんてパニック障害なわけがない」とSNSで炎上していた。そのとき、パニック障害の特徴だと私も思っていた”広場恐怖”(電車に乗ることが困難になるなど)は、もっていない場合もあることを知った。
そもそも、”広場恐怖症”と”パニック症”は、別の症状名だった。併発することが多いというだけであった。
むしろ、狭い場所だけでなく、列に並ぶことや群衆の中にいること、家の外にでることへの恐怖や不安も含まれる、そしてうつ病などとも合併しやすいものだということらしい。なんて無知だったんだ。私も、群衆や家の外が無理なことが多いぞ。
こんなに、自分が無知だったとは。
とにかく、ありすの場合は言葉が知能が遅れていないように感じるし、どうやら和紗と同じ学校(高校)に進学しているため、普通の学級で授業が受けられる状況だったことがうかがえる。
色や曜日などに対するこだわりが強かったり、大きな物音、いつものルーティーン以外の突然の出来事に対応できずパニックになり、落ち着こうと元素の名前を唱え始めるなど、私が認識していた”自閉症”の要素もある。
だが幼少期から大学レベルの化学の知識を持っていたり、オセロ最強だったりという天才的な側面があったりする。
また、自分のこだわりを押し付けてしまう、周りに迷惑をかけていることに対し、ありすが自責の念を持っていることに特に驚いた。
第2話では、無事住み込みバイトとなった倖生とありす、父親が3人で生活するにあたってそれぞれが苦労するのだが、ありすは自分と同じように相手にもこだわりがあるかもしれないということを知っている。最終的に、自分のこだわりと倖生の行動の双方を尊重する案を、ありすは自ら提案できたのだ。
これには感動した。
と同時に、これは、本当にASDの方々ができうることなのかな?とも思ったりもして。
ただ。
これは、単にASDのことを知ってほしいだけのドラマではなく、
”生きづらさ”を抱えているひとのためのドラマだな、
ということを感じている。
主役のありすがASDであるが、倖生もどうやら孤独の身であり、何かを抱えながら必死に自分の居場所を見つけようとしているように見える。
また、私は鬱病12年生だが、ありすをみていると、
”私と同じような状況だな”、”同じこと考えているのだな”、
と思うことがあり、胸が痛い。
世間的な括りでいうと、ありすは自閉症スペクトラムとかASDとか、障害者とかいうカテゴリ―に入るありすだが、行動をみていると、
パニックになったときの行動が、鬱病の私がパニックになるときと似ているし、
パニックなどでその場を台無しにしたことを悔いて「またやってしまいました」「いつも迷惑をかけてばかりいます」などとありすが発言すると、私みたいなこと言うんだな、と思ってしまう。
私がいちばん苦しかったのが、ありすが過去に勤めた職場でうまくいかなかったときの回想シーンを観たとき。
私は鬱病を抱えながらパート勤務をしたことが2回あるが、悔しい思いをたくさんした。
鬱病は”気分障害”ともいわれ、自分でも自分のトリセツを作るのが難しい。いつどういう調子になるか、正確にわからない。だから、周囲に説明することもなかなかうまくできない。最初はやさしい職場のひとたちが、だんだん自分に対し「?」という気持ちになっていくのが分かった。不信感を抱かれている、戸惑わせていることを感じれば感じるほどメンタルに負荷がかかり、ミスをしたり、頭が真っ白になったり、声がかけられなくなったりする。どんどん、できていたことができなくなっていくのだ。結局、理解しようとしてくれているひとたちに理解してもらうことができないまま、私は辞めることになってしまった。
ありすはおそらく、障害者雇用枠で働いたのだと思うが(推測)、それでもやっぱり、どんなに得意な料理でも、”普通”のみんなと同じにできないと続けていくのは困難だ。2回転職したらしいが全部クビ。「後から入っていくのは大変なことでした(意訳)」と言っているが、その通りだと思う。
そんなありすのために、父の心護がありす個人の料理店『ありすのお勝手』を用意してくれ、幼馴染の理解者である和紗がホール係としてきてくれたが、周りが環境をととのえてくれている現状にありすは
「おかげでなんとかやれてしまっています」「私はこのままでいいのでしょうか」と。
私だって、実家が受け入れてくれるおかげでなんとか生きていられるけれど、30代も後半になり、このまま親と一緒に住んでいて、養われていていいのか。親も年をとり、そのうち介護が必要になる。私はそのとき、面倒をみられるほど回復しているのか、というか、社会に出ていないままではやばいだろう、とか、、、、、、
現状のままでいいか、と思えるなら、とっくに心の病なんて治っていると思うが、将来への心配は尽きない。
ありすも、そういうことを考えるのだなと。
ありすとは違うけれど、ありすに自分を重ねる部分がある。
病気とか障害、生きてきた環境など、それぞれに事情を抱えてひとは生きている。どんなに健康なひとでも、どんなに普通の顔をして過ごしているひとでも、生きることにおいて悩みがないひとはいないと思う。
何かとこだわりが強いが化学の知識に長けていて、人を感動させる料理を作れるありす。
どうやら本当の父親ではないのに、ASDのありすという女の子を男手ひとつで育ててきた心護。
何らかの事情で大学を中退し家のない生活をしていたが、人と素直に向き合おうとするやさしさをもつ倖生。
口が悪い元ヤンだが、やさしさと強さで大事なひとをとことん守れる和紗。
いい個性だし、生かし合っていけたらいい。
みんながそう思えたらいい。
言ってしまえば、
こだわりなんて、みんなにある。
それを大切にされないことでひとと喧嘩になったり、傷ついたりする。
誰かにとってはどうでもよくても、誰かにとってはかけがえのないもの、譲れないものがある。
コミュニケーションが苦手とか、人と目が合わせられないひとなんて、別にありすのようなひとでなくたってたくさんいる。人見知りのひとは多い。
ありすが倖生に心を開いていった理由が、倖生がありすのする化学の話を興味を持って聞いてくれたことがきっかけだったと思うのだが、そうやって、興味のあることについて聞いてくれるひとが、ありすには今までいなかったのだと思う。
”何か唱えてるな”、”私にはわからない”、”この子そういう子だもんな”
という感じで、他のひとたちには今まで敬遠されてきたのだろう。
また、倖生は、同居にあたってのありすの細かいこだわりを全て聞いてくれた。自分のこだわりについて知ろうとしてくれることも、ありすにとってはうれしかったのだろうと思う。
倖生は、”ASDのひと”というレッテルを貼らず、バイト先の店長として、八重森ありすという”ひと”として向き合おうとする。
その様子をみている心護が「ここまで向き合ってくれるひとなかなかいない」というほど、ありすは今まで孤独だったのだろう。
「どうして、そこまで向き合ってくれるの?」
という心護に対しての倖生の答えが、何やら、自分自身も孤独であることをほのめかすような言葉だったので、この先の展開が気になっている。
誰かと信頼関係を作りたい、その思いがなんだか必死なくらいに伝わり、自分の居場所を必死に築こうとしているようにも見える。
「信頼されるには努力がいる」
「人と人とは信頼関係だよ」
「一緒に住むというのは譲り合い」
「お互い嫌なところも含めてやっていく」
などという、和紗の名言が毎回飛び出し、深いなぁとこちらも胸に刻みたくなる。
人付き合いや、共同生活が大変なのは、みんな同じだ。
特に、同居するというのは、我慢がいる。
私も毎日毎日、家族がストレスであり、それでも一緒にいるしかなく、ここしか居場所がないので、やっていくしかない。できることをやっている。やっても、うまくいかなかったり、迷惑をかけたり、精神を抉られることがある。
(家族との諸々については今回は割愛)
ありすのような場合は、さすがに特に大変だろうなと思うくらい、コップの色、食器の色、調味料の並べ方、テーブルの拭き方などあまりに細かくて倖生が苦労するのもわかった。
でもどんな場合においても、大切にしたいことやこだわりが、人間、何かしらはあるわけで。それを家族や同居人は理解しておかないと、うちの両親のようなことになるのだろう(詳しくは割愛)。
相手を尊重したり、自分もこだわりをきちんと主張したり、その中で解決策を生む努力をしたり。
そういう努力を、心護はもちろん、倖生、ありすがそれぞれにして、解決策をありすが見つけて、倖生に提案するまでの過程を見ていくことが、この第2話の醍醐味だった。
※いい加減、第2話を貼っておこう。
人間の持つ生きづらさ、誰しもがもつこだわりや個性。
それを知ろうとすること、大切にすること。
2話まで観て、これがこのドラマのテーマかな、と思った。
ありすがASDの主人公ということで、当事者やそのご家族の方々などはどう思っているのか、少しSNSを見てみた。
・サヴァン症候群だな
・ギフテッドだよね
・重度のASDなんだな
・知的遅れのないASDだね
・環境が恵まれすぎている、なじみの商店街があることがうらやましい
・言葉に遅れがないからこだわりを言語化できてうらやましい
・見た目ではわからない軽度のASDのひとの苦労を知ってほしい
・ASDに料理というマルチタスクは厳しいのでは
などなどの意見があった。
リアルではなく「ファンタジーである」という声もやはりみられた。
ただ、これはあくまでASDがメインでなく、あらゆる”生きづらさ”がメインだと私は思っているし、同じASDでも、鬱病当事者としてで申し訳ないが本当にひとりひとり違うものだと思う。
何より第1話で和紗が、バイトで入ることが決まった倖生に対してありすやASDのことを説明する場面で、
「ASDっていっても個人差はあるから。あくまでも”ありすの場合は”、って話ね。」
と、しっかり伝えている。
健常者にも、ASDのひとにも、鬱病患者にも、みんな個人差があり、個性があるし、できること、できないことがある。
私はそう思ってみている。
※1話はこちら。
私は、心がいつも参っているので、物語がハートフルであればあるほど助かる。
そして、登場人物は、やさしければやさしいほど助かる。
こういう、生きづらさに寄り添うことで、苦しい世の中でもひとのやさしさに触れられる話が、いちばんありがたい。
そういう人間が、ここにいるのだ。
永瀬廉がすきだが、映画『法廷遊戯』は、世間では大絶賛された様子だったが、あまりに重い内容である様子だったので、どうしても観に行けなかった。
どうしても、あたたかい、やさしい、たのしい話しか受け付けない。
そういう私にとってはかなりの大ヒットドラマだ。
最近日テレのドラマの件でいろいろ問題があり、このドラマも盗作がどうとかいう噂も書かれているが、どうだっていい。
私は、今このドラマに心を救われている。
自分のことで精いっぱいなので、今回はこのドラマについて、思うまま書かせてもらった。
センシティブな問題であると思うので、不適切な表現などありましたら、お知らせください。
ひとそれぞれが生きづらさをもっていることを知り、寄り添おうとするひとが、このドラマでひとりでも増えるとよいな。
やさしい世の中を、みんなが作っていくことができますように。