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戦争。われわれがいちばん強い。(「作家の日記」)
「作家の日記」は、ドストエフスキーのnoteのような作品である。エッセイ、評論、時事的なこと、短編小説などが含まれている。
「罪と罰」が1866年。
「カラマーゾフの兄弟」が1879年。
「作家の日記」は、1873年~1881年。
今回の記事は、ドストエフスキー「作家の日記」を引用する。テキストは、ドストエフスキー(小沼文彦[訳])「作家の日記4」(ちくま学芸文庫[全6巻]、1997年)を用いる。
ドストエフスキーが1877年4月に発表した記事(前掲書pp.266-294)の目次は以下の通り。読みやすさを考慮して適宜、段落を改めた。
1.戦争。われわれがいちばん強い。
2.戦争はかならずしも災厄ではなく、ときには救いでもある。
3.流された血は救ってくれるか?
4.近東問題についての「温良たぐいなき」皇帝の御見解。
「 しかしながら民衆は、新しい、生まれ変わらせてくれる偉大な一歩を踏み出す覚悟が、自分たちにはできていると信じている。
これは民衆が自分から進んで、皇帝を頭にいただいて戦争に立ち上がったのである。
(中略)皇帝の詔勅が読み上げられると、民衆は十字を切って、みんなが戦争がはじまったことを祝い合った。
(中略)僻地の村々の農民はそれぞれ分相応の金品を醵出し、そして突然、これらの何千という人たちが、まるでひとりの人間のように口を揃えて『献金だけでは、物質だけではらちがあかない、みんなで戦争に出かけようじゃないか!』と叫びはじめた」(pp.267-268)
「 ヨーロッパの歴史を通じて、われわれがそれを記憶するようになって以来、ただの一世紀といえども戦争なしではすまされなかったのも無理のない話である。
そのようなわけで、戦争もまたなにかのために必要であり、治癒力を持ち、人類の苦痛を和らげてくれるものらしい。
もし抽象的に考えるならば、これはまことにもってのほかのことであるが、しかし実際には、どうやら、そういうことになるようだ。
それと言うのも、病毒におかされたオルガニズムにとっては、平和のような結構なことも、かえって害になることがあるからにほかならない。
しかしなんと言っても益をもたらすのは理念のために、崇高で公平無私な原理のために起こされた戦争だけであり、物質的利害のために、貪欲な侵略のために、思い上がった強圧のために企てられた戦争ではない。そのような戦争は国民を間違った道へ誘い込むだけで、つねにそれを破滅させてきた」(pp.290-291)
[雑感]
いま現在、ドストエフスキーが生きていたら、なにを語るだろうか?
私が最も敬愛する作家の一人だが、「崇高で公平無私な原理のために起こされた戦争」というものがあるのかどうか疑問に思う。
あるかどうかに関わらず、大国が「崇高で公平無私な原理」を信じて戦争を引き起こしたら、それを食い止める手段が戦争しかなくなることを危惧する。
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