女らしさとは何か?| 与謝野晶子を「読む」
積ん読状態になっていた「与謝野晶子評論集」。
与謝野晶子と言えば、「君死にたまふことなかれ」の詩や短歌を思い出す。
詩や短歌というものは、作品それ自体を読んで鑑賞するものだけれども、それを書いた人の人生や考え方を知ったほうが、より深く理解できるのではないだろうか?
前掲の岩波文庫の「与謝野晶子評論集」の一番最後に掲載されている「『女らしさ』とは何か」という評論文を読んでみた。この評論文は、1921年2月に『婦人倶楽部』で発表されたものである。ちょうど今から100年前くらいである。晶子の主張を要約してみる。
「女らしさ」の正体は何か?
当時の日本において、「女らしさ」の条件として確かにあったものは「おとなしさ」だった。しかし、それは先天的に決定しているものではない。あえて言えば、「女らしさ」と宿命的に課せられているのは「妊娠する」ということだけではないだろうか?
政治や軍事は男の専任と思われているが、日本の歴史上、女帝・女兵・女性政治家もいた。もしも性別によって分業が決まるならば、男が裁縫師・料理人・洗濯業者・紡績工になることは「男らしさ」を失うことになるが、そのような主張はおかしい。
ある論者は「女らしさ」とは、「愛」「優雅さ」「つつましやかさ」を備えてあることである、と言う。しかし、それは男にも期待されるものであって、あえて言えば「女らしさ」ではなく、「人間らしさ」というべきものだろう。
このように考えると、「女らしさ」というものは存在しない。現在世間で主張されている「女らしさ」とは、「人間性」ということに還元されるものである。
晶子の主張は、至極まっとうなものだと思う。しかし、この主張がなされたのは、明治憲法下の時代であり、また、普通選挙法が施行(1925年[大正14年])される前のことだった。当時としては、かなり進んだ考え方を持っていた人物だったと言えると思う。
ところで、この評論で私の目を引いたのは、「女らしさ」のことではなく、次の一節である。
このような文章を読むと、まるで今の時代に書かれた評論のようにも思える。
与謝野晶子ってやはりすごい人だとあらためて思った。
まとめ
「男らしさ」あるいは「女らしさ」ということを異性に一方的に要求することは、自らの「人間らしさ」を放棄することにつながる。今に生きる私たちこそ、肝に銘じておきたいことである。