フランス詩人マックス・ジャコブの詩からポルトガルのファドを考察する
こんにちは。
「墓の魚」の作曲家です。
私達「墓の魚」は
19世紀頃の
ポルトガルの漁師達の生活の中にあった
貧困への風刺や、信仰、
彼らの生活の中に打ち捨てられた
海洋生物の死骸
などを題材に作品を作り、
オリジナル作曲の
ファドやカンツォーネを歌う
世にも珍しい
海洋のオーケストラです。
ポルトガルの
港町リスボンのファド(FADO)を
自作曲する事で生まれた
私達の歌う
ファド・エンテーホ(Fado Enterro)は、
通常のファドよりも、
より死(メメント・モリ)や、
喪失(ジ・ウート)に特化した詩により
構成されるのが特徴です。
そうは言っても、
元々のポルトガルのファドの中にも
確実に、
喪失の哲学とでも言うべきもの
が流れており、
ポルトガル語圏の音楽家達は、
それを[サウダーデ]と呼んで、
[説明のしにくい感情である]
としています。
喪失の哲学
とは何なのでしょう?
[人生の中で失ったものへの切望]
や、
[何処にも無い場所への郷愁]
だとも説明される事がありますが、
実際は、
キリスト教徒にとっての
[十字架に架けられ、
失われたキリスト(メシア)]
や、
[ユダヤの亡命の歴史]
[ポルトガルの
かつての大航海時代への誇り]
なども絡んでいる感情であり、
確かに簡単な説明は難しいものです。
ポルトガルは、
かつて大航海時代に
多くの海の制覇した
栄光の過去があり、
また、それを失った
敗北の歴史があります。
その過去の栄光を想う、
敗者だけにわかる喪失の感情は、
港町の歌の中に
歌い継がれているのではないでしょうか?
ファドに流れている感情は、
かつて
フランドル地方で流行った
果物や財宝の中に髑髏を置いた
静物画である
ヴァニタス(VANITAS)に少し似ています。
これは、
どんな栄光や、富も、
いずれは死に絶える。
全てが虚しいものである・・
というメッセージが
込められた絵画でしたが、
ファドにもまた
[人生の虚しさ](VANITAS)
が語られている
と私は感じています。
さて、
以前、私は記事の中で
フランス詩人
マックス・ジャコブの詩
【La mendiante de Naples】
を解読しながら、
ファドの中にある
ヴァニタス
を解説する試みをした事があるのですが、
当時は別の主題のおまけとして、
その話を記事の片隅に書いただけだったので、
今回、主題として、
その話を再掲してみようと思います。
このフランス詩人の書いた詩には、
非常にファド的な題材が
流れているからです。
以下、
マックス・ジャコブ
の詩を
見てみましょう。
【La mendiante de Naples】
Quand j’habitais Naples, il y avait à la porte de mon palais une mendiante à laquelle je jetais des pièces de monnaie avant de monter en voiture.
Un jour, surpris de n’avoir jamais de remerciements, je regardais la mendiante.
Or, comme je regardais, je vis que ce que j’avais pris pour une mendiante, c’était une caisse de bois peinte en vert qui contenait de la terre rouge et quelques bananes à demi pourries.
【訳】
「私がナポリに住んでいた時、
我が屋敷の門前にいつも物乞いの女がいた。
私はいつも馬車に乗る前に、
女に硬貨を投げ入れてやったものだ。
ある日、ふと
老女が何も言わない事を不思議に思い、
その女をよく見てみると、
物乞い女だと思っていたものは実は、
いくらかの赤土と、
腐りかけたバナナの皮がつまった
緑色の木箱だという事が、
まさにこの時にわかった。」
■マックス・ジャコブ
「ナポリの女乞食」
この詩の
[面白さ]
を人に伝えていくのは、
なかなか難しい事です。
この詩には、
この世など
一歩間違えれば
虚妄分別そのものであり、
そもそも我々の人生そのものが
可笑しな虚妄なのではないか?
というテーマがあります。
そして、
世界から捨てられた哀れな場所
に、
同じく
社会から捨てられた
哀れな者
の幻影を見る事の
世の虚しさを問う感情が
この作品にはあると思います。
また、ゴミ捨て場に
哀れな物乞いの幻想
を見る現象は、
この詩の語り手が
捨て去った己の惨めさ
に対する
[後ろめたさ]
を持っている為・・
と考える事もできます。
自分より哀れな存在
(物乞いの老婆)を見て、
彼女に投げ銭を与えていた作者は、
彼女の中に
自分の敗北した姿
を見たのかもしれません。
そして、己の今の姿に安堵し、
自分が、
[その敗者の幕屋に行く事は
もはや無い]
という
保証(安堵)を無意識に
欲したのではないでしょうか?
それは、
人間が俗世の社会の見せる
安泰の幻に縋りつく
よくある行為であり、
「私は死にゆく・・
富も名誉も、
もはや意味はない」
という中世の
ヴァド・モリ【Vado mori】
の警句の
逆バージョンなわけです。
(同テーマは有名なアルゼンチンのタンゴの曲
「Vieja Recoba」にも
見る事が出来るかもしれません)。
「ああ、哀れな老婆よ・・
昨日までの栄光が、今日はただの廃墟・・
私は涙を隠す事が出来ない・・」
そう考えると、
投げ銭は
自分が行く場所であったかもしれなかった
[この世の哀れな場所]
への
[生き足掻く者]からの
供養、贄
でもあるのですね。
こういった
[自分の人生の影]
への扱いは、
中世ヨーロッパ世界での
死の扱い、
魔性の扱いと少し似ています。
つまり、それは
キリスト教徒にとっての
罪の意識としての
闇に対する独特な
嫌悪と後ろめたさの感情であり、
同時に、ラテン音楽の中の
サウダーデ(喪失)という感情には、
やはり自分達の世界から、
自分達の罪により失われた(喪失した)
キリストに対する感情が、
無関係とは言えないのではないか?
と私は思っています。
キリストの喪失に対する嘆きは、
スペインのフラメンコの
サエタ(Saeta)の祭典においても、
見る事が出来ます。
こうした
人生の中で経験する
喪失の感情というテーマが、
大衆達が詩心を理解する
ラテン諸国の芸術には
日常の中に溢れているのです。
日本ではほとんど紹介されない、
この
「十字架の下で行われる
悲しみながら皮肉に笑う人達の演劇」
をラテン音楽や、
私達「墓の魚」の作品の中で
ぜひ、覗いていただけたらと思います。
「墓の魚」オーケストラの
映画の様な配信コンサート・第一弾
スペインの魔女達、南米の迷信、
熱帯雨林の夢、独裁政権と社会主義など、
様々なテーマが入り乱れる音楽で奏でる幻想文学
「死んだ珪藻とマキシロポーダのミサ」
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