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ホッとする人間関係の作り方

 こんにちは、シマトです。

 8月は、当初の予定以上に沢山の人といっぱい触れ合う機会がありました。「死〜ん」って感じは回避しているにせよ、案の定色々考えちゃった🥲家族の暗い話もする!いやな人、何卒自衛お願いします🙇


「なりたい私」と、実際の振る舞いの乖離

「ここでこのように発言する人物がいると面白いのではないか」

と咄嗟に思う瞬間が、しばしばある。私が咄嗟に想起する「面白さ」は、風味としては少々辛口。その「面白さ」を体現するために、どうしても強めの語気で、あけすけな言葉を使うことが多い。
 しかし、決して私は「荒い語気であけすけな言葉を使う人間」になりたいわけではない。私のなりたい人間像は、以下のJJFのコンセプトどおりである。(今初めて気付いたけど、どっちも「ホッとする」が入っとる……!)

会うとホッとし、話すとつい笑ってしまう
いつも陽気で朗らか
なネイリスト💅
兼・時々イメージコンサルタント🩰

第二次コンセプト

非常にマイペースで釣れないが、
話すとホッとするおねーさん

第三次(現視点で最新)コンセプト


 つまり私は、「なりたい(こう在りたい)自分」よりも、「場としての面白さ」を優先して発話することの方が、圧倒的に多い。これが、多分「ありのままの自分で、心地よくただその場に存在する」ことの阻害になっている。いや、ギャーギャー騒がしい私も間違いなく私の一部ではあるのだが(笑)、ひとしきりはしゃいだ後に、ふと寂しい気持ちになることが結構あって。それはやはり、傷ついた幼い私がまだ私の中にいる証拠なのかな、と思う。

私が「私」をやめて「ピエロ」になった経緯

 学生だった頃、家の中で押し黙っていたり表情が乏しいと、母の攻撃の的になってしまうのが常だった。
「なんで、そんなに機嫌が悪いの!!!」
と金切り声で叫ぶ。
 本当は、私ではなく母自身の機嫌が悪いのである。私は単に表情筋を休憩させているだけだが、それが母からすると、“娘が家庭内に不機嫌を撒き散らしている”ように感じられたのだろう。「別に機嫌悪くないよ」と慌てて弁明しても、もう母の耳には届かない。夕食返上で行われる怒涛の人格否定。絞り出す「ごめんなさい」すら、「何がごめんなさいなの?何が悪いと思ってるの?」の更問が帰ってくるだけで、受理されることはない。
 今から思えば、あれの正解ってなかったんだね。ママは、自分の癇癪を撒き散らしてストレス発散したかっただけ。そのサンドバッグには、同性の子供が一番適してただけ。

 最悪だったのは、我が家に子供部屋がなかったことだ。ただでさえ狭いマンションは分不相応に立派な嫁入り家具で埋め尽くされており、私たち家族は眠っている間以外、皆同じ空間にいることを余儀なくされた。つまり、私が無表情で黙っていられる時間はトイレくらいしかなく、営業時間中は常に“ゴキゲン”でいる必要があったのだ。

***

 …上の文章、書きながら文末に「笑」とか「😂」をたくさんつけた。後から見返して、ポチポチと消した。「笑」をつけることで、心を守ってるのかなぁ。だって、真正面から受け止めると、悲しくてどこまでも沈んでいってしまう。年甲斐もなく涙が出そうになる。この悲しみは、誤魔化さずにちゃんと浸った方がいいやつなのかなぁ。。。
 うーん、でも、こうやって書かせてもらってるだけで、だいぶ救いになってる気はするんだよね。悲しみそのものと同化しすぎずに、(それこそ母親目線で)優しく寄り添う感じが吉なのかなぁと思ってます。

「私」になるための「ホッとする」深掘り🦡

 そう、私はとても建設的な人間なんです。自分のそういうところはとても好きだし、私という人間の強みとして伸ばしていきたい部分です。というわけで、「これからどうする?」の話に移ります。

 私のなりたい人間像、上記のとおり至上命題は「ホッとする」なのですが、

「会うとホッとする人」って
どんな人だろう?
「ホッとする」って
どんな状態なんだろう?

が、そもそもよく分かってなくて笑。まずはそこを掘ってみました。

・ホッと「する」⇄「してない」の指標

・その人に会う前の身支度(おしゃれ)が、自己表現として、シンプルに楽しい。
⇄「綺麗な/イマドキな/女らしい/状態でいなきゃ…」という義務感でやっている。「相手がこう思うかも」とか「TPOに相応しくないかも」など、周囲からどう思われるかを憂慮している。

・その人の前で滑稽なことをしている自分のことを「わたしゃ面白いやつだな〜🥳」と思える。
「また虚構のピエロを演じてしまった………。」と後々落ち込む。

・その人が笑ってくれたり、幸せそうな顔を見ると私もただただ「嬉しい、幸せ」。
⇄その人が笑っていると「(私の今とった行動は)正解だったんだ」と束の間の安心を得る。


…軽い気持ちで掘り始めたらいきなり本質に近いところに当たった感があり。嬉しいようなギクッとするような(笑)。

・実在の「ホッとする人」を思い浮かべる。

 …一言で言うと「穏やかな人」、かな。自他の心の機微に少々敏感すぎる私にとって、目の前のごはんが美味しいことや、街の景色が徐々に秋色に移ろいでいることなど、目の前の事実を丁寧に共有し合うだけのような会話は、束の間の心の休憩。そういう会話が上手な人って、おそらく承認欲求の満たすために他者との相対評価を利用していない人、なんですよ。良い意味で私に興味がない=私に何らかの判断を下そうとしていない=ありのままを肯定してくれている、ってことなんだろうなぁ。

 その観点で言うと、私自身が結構「他人に対して、人となりを判断・カテゴライズする思考癖」があると思っていて…。カテゴライズ癖は、白黒思考の進化形なんじゃないかと勝手に思ってるんだけど。そして、人間として未熟で恥ずかしいことだけど、無意識下では、他人と自分を比べて優劣を判断してるのかもしれないな…。
 そこを脱することができたら、気の持ちようがぐーんと楽になる気がする。

まとめ

 この「ホッとする」、要はカウンセラーさんの仰った「安らぐ」のことよね…と。噛み噛み。もぐもぐ。

一つの事象に色んな言葉をはめて色んな角度から見直すと、分からなかった問題が前に進むこともある。この快感こそ、思考し続けることの醍醐味ですよね。これだから私は、考えることをやめられないのでしょうね…☺️💦


 あっという間にもう9月ですね🌰先日ふらりとウインドウショッピングしてたら、秋物が可愛くてとってもウキウキしました☕️欲しいお洋服の話もしたいな。皆さんのお話もたくさん聞きたいです☺️

では、それはまたの機会に🫶

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