自分のすべきことが見え始めた。
最近、暗鬱に積極的に沈んでいく感傷に浸っていたこともあって、noteでもその類の投稿をよく見ていたのだが、
鬱、自殺願望、他殺願望、絶望、生きづらさ、、等々、抱えているありのまま感情を綴った投稿をされている方々が多くいらっしゃることを知った。
私自身も(軽度ではあるものの)鬱病の診断を受けたことがあるので、少なからずこうした方々の痛惜は自然と理解せられ、ある種、敬愛や和気だに覚えることもあった。
こうして様々な痛哭に触れ、
私は「暗鬱なるものを美しく描きたい」と思い抱くようになった。
そしてまた、「鬱を美しく描くことによって、憂鬱に打ち拉がれる人を多少とも救えるのではないか」と思い至った。
私は鬱の懊悩に沈む人達に寄り添ったり、励ましたりしようというのではない。
そういうのは、余計なお世話になればまだいい方で、綺麗事を並べられたように感じ鬱陶しくなるのが、大概のところであることを理解しているつもりである。
まして、その暗澹な世界に光を齎そうというつもりもない。
ただ私は、
鬱なものを鬱として、
真っ黒な世界を真っ黒な世界として、
それをありのまま美しく描きたいのである。
そうすることによって、認識にコペルニクス的転回を与え、人を救えるのではないか、と信じるのである。
私自身が最近、梶井基次郎氏の『檸檬』に描かれる「不吉な塊」に愛おしさを感じたのも、この種の出来事なのではないのかと思う。
ちょっと話は逸れるが、私は時折、
「小説家はいかに世界に寄与するか?」ということを考える。
大衆作家等、読むに面白い娯楽的側面の強い作品等を創作するにおいて、エンタメ的意味合いで世界に寄与している先生方は良い。
だが、人にネガティブな感情を抱かせたり、絶望感を与えたりする作品もこの世には多くある。
こういう作家はいかに世界に寄与しているのであろうか?
寧ろ、人々に消極的な影響を与えてしまうのではないか?
私はこう回答したい。
彼等は、暗鬱なものを美しく描くことによって、それを抱える人々を救っているのだ。と。
当然すべての作品に一概に言えたことではないし、芸術的価値や、人間の本性への鋭い洞察等の寄与も評価しなければならないが、
やはり、暗鬱を美しく描くその側面を傍らにするべきではないはずである。
だがしかし、現代の視点でそういう仕事をする人(小説家に限らず)に私は未だ出会わないのである。
ならば、「私自身で挑むべきなのではないか?」
そう思った次第である。
これは、いかなる良薬、いかに優れた医者、耆婆扁鵲にもなし得ぬ、鬱の救出方法ではないだろうか?
抑抑、私なんぞにそんなことは可能なのかも分からない上に、傲慢な取り組みかもしれないが、やらないうちに匙を投げるのも気に喰わないので、
「暗鬱なものをありのままに美しく描くことによって、鬱に沈む人を救う」
これを私に課せられたミッションとして、noteに投稿していこうと思う次第である。
応援頂けたら幸いに存じます。
ということで、
改めてよろしくお願い申し上げます。