日本は優生思想に寛容である件(4)「病気は自己責任」論との危ない関係
▼ただの紙切れにすぎない紙幣(しへい)をめぐって、世界中の人々が左右され、動かされているように、「思想」というものは目に見えない力を持つ。
資本主義の思想は紙幣に体現されており、この文章を読んでいる人の誰もが、たとえばコンビニで買い物をして、赤の他人に紙幣を渡して、お釣りの小銭をもらう、という一連の行為が成り立っていることに、ふだんは1ミリの疑問も持たない。
これが思想の力だ。
▼「買い物」と同じように、「病気」についても、日本社会は無意識のうちに、何らかの思想に支配されているかもしれない。
たとえば「生活習慣病」という言葉である。「自己責任論」の文脈で、大切な話だと思った記事を紹介しておく。
2019年4月26日付朝日新聞の「けいざい+」欄。「予防医療」の4回目。二木立(にきりゅう)氏のインタビューをもとに構成されている。適宜改行。
見出しは、
〈「病気は自己責任」 広がり危惧(きぐ)〉
「江崎さんは人生最後の1カ月で生涯医療費の50%を使うとおっしゃった。これは200%間違いです」
昨年10月25日、都内でのシンポジウム。生活習慣病の予防など「超高齢社会への対応」をテーマに講演した経済産業省の江崎禎英(よしひで)は「医療費は死ぬときが一番高い。死ぬ人が多いほど医療費が高くなる。ある健保組合だと、人生最後の1カ月で生涯医療費の50%以上を使っている」と話した。
これに反応したのが、日本福祉大名誉教授の二木立。医師で、医療経済や政策を45年以上研究する学者はフロアから「明らかにデマ。死亡前1カ月の医療費が国民医療費ベースで3%強というのは確固たるデータがある」と強い調子で批判した。江崎は「私は大学病院の医師から話を聞いている。全体をまとめると、どこに問題があるかわからなくなる」と返した。
その後、文芸誌で若手社会学者が「財務省の友だち」と検討した結果として、「最後の1カ月の終末期医療に金がかかる。その延命治療はやめる提案をすればいい」と述べたくだりがネット上で「炎上」した。二木が注目したのは「長期的には『高齢者じゃなくて、現役世代に対する予防医療にお金を使おう』という流れになるはず」という発言だった。
このロジックは財務省ではなく経産省が使っているからだ。〉
▼予防医療で健康寿命をのばす、というのは結構なことだ。しかし、健康寿命が延びたからといって、医療費が減るわけではない。少し考えれば、誰でもわかることだ。寿命が延びたら、その分、医療費がかかるのだから。
だから、なるべく予算を使いたくない人たちが、「自己責任論」を召喚(しょうかん)することになる。
〈(中略)さらに心配なのは、予防医療の推進が「生活習慣病は個人の不健康な生活に責任・問題がある」との前提に立ち、個人に行動変容を迫るインセンティブ(動機づけ)が提唱されていることだ。
「かつてナチス・ドイツが『義務としての健康』を国家の公式スローガンにしていたことを思い出す」と二木は話す。〉
▼「個人に行動変容を迫る」動きには、まさに際限がない。この二木氏は、かねがね「生活習慣病」という言い方そのものがおかしいから、違う言葉を使うべきだ、と主張している。
「生活習慣病」と言われると、必然的に「病気は自己責任」という連想につながり、それが常識と化していく。実際に今、日本社会はそうなりつつある。
▼病気は自己責任。そのとおりじゃないか? と思う人もいるだろう。
そうだろうか? タバコは、たしかにそうだろう。お酒の飲みすぎも、そうだろう。しかし、思いつくままに並べてみると、花粉症は? 遺伝は? 職場のストレスは? なにかのきっかけで有害物質を体に吸い込んだら? 公害は?
「病気は自己責任」。この一言を「正しい」と思う人は、たとえば「水俣病」や「イタイイタイ病」や「四日市ぜんそく」の患者やその家族に、面と向かって「病気は自己責任」と言えるのだろうか。
病気は自己責任。だから公的な医療費を減らそう。この論理は、社会意識の深い層に流れている思想と関係がある。その思想は、「ひきこもりは自己責任」「子どもが病気になったのは親の自己責任」「自殺は自己責任」などといった荒唐無稽な「論理なき結果論」を支え、強迫し、人を追い込む。
この状況に、何かいいかげんなデマがまき散らされれば、悲惨なことになる。とても簡単に。(つづく)
(2019年8月10日)