『エチカ』新訳の「事象性」という訳語について
以下の文章は、哲学的にも語学的にも素人の者が自分用の勉強メモとして記すものである。誤りなどあるかもしれないが寛い心で読んでいただきたい。
スピノザ新訳全集の『エチカ』(上野修訳)を読んで、まず「おやっ」と思ったのは、従来「実在性」と訳されてきた言葉が「事象性」と訳されていることにである。その語の所出は第一部定理九だが、そこには注が付いていて、引用すると、
「事象性」(realitas)。事物(res)が持つリアルな事物性。「実在性」と訳されることもある。事象性には程度の大小がある。
とある。なんとなくわかるが、なぜ「実在性」という単語ではなく「事象性」と訳したのか、積極的理由まではここだけだとイマイチわからない。
当然、これまで「実在的区別」となっていたものは「事象的区別」となるし、「実在的」に慣れた身としてはだいぶ引っかかりを感じる。
そんな折、木田元の『ハイデガー拾い読み』を読んでいたら、ここのヒントになるようなことが書かれていた。上野さんがこれを読まれたうえでお訳しになったのかどうかは何とも言えないが、とにかく自分の理解が大いに進んだ本である。
木田はここで、カントを読むハイデガーについて語っているから、ラテン語もドイツ語も全くできない私としてはただうんうんと話を聞くより他にはないが、木田はドイツ語の「real(レアール)」という語に(少なくともカントにおいて)「実在的」という意味はないのであり、その語の変化型である「Realität(レアリテート)」についても事は同じであるとして、試みに「事象内容性」という訳語を提案するのである。
このあたりを木田の語り口で読むとスリリングで楽しいのだが、私のまとめだと随分無味乾燥としたものになってしまった。お許しいただきたい。要するに木田説では「レアール」という単語から「実在性(リアルに存在する、ということか)」のニュアンスを消したいということであり、ひょっとすると今回の『エチカ』で「事象性」という訳語が採られたのも、それに類する含みがあったのではないかと、あくまで勝手な邪推ではあるが、自分の中ではそう理解して、「事象性」という単語を体内に馴染ませることにした。
もしかしたら新訳と旧訳の違いをあげつらって批判しているように見えたかもしれないので、そうではないことを示すために、最後に新訳の素晴らしい点も挙げておく。第四部付録のいわゆる「生活法」の第五項の出だしは、岩波文庫、畠中尚志訳では次のようになっている。
「だから妥当な認識なしには理性的な生活というものはありえない」
ここが、上野訳だとこうなっている。
「したがって、理解なしには生きるに値するいかなる生もない」
ここにも上野さんは注を入れているのだが、そこは割愛させていただくとして、どうだろう。パンチライン的に「強い」のはどう考えても新訳だろう。私は新訳でここを読んで目の醒めるような思いがして、さっそく線を引いた。旧訳ではその素晴らしさに気づけておらず、線引きはなかった。無学な私にも「刺さるスピノザ」を届けてくれた新訳には感謝である。全集は高いので『エチカ』の巻しか買っていないが、これからもスピノザの勉強を続けてゆきたい。