死を想え
1983年初版の藤原新也氏『メメント・モリ』の序文をご紹介します。
ちょっとそこのあんた、顔がないですよ
いのち、が見えない。
生きていることの中心(コア)がなくなって、ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、口で噛むとシュッと溶けてなさけない。
死ぬことも見えない。
いつどこで誰がなぜどのように死んだのか、そして、生や死の本来の姿はなにか。
今のあべこべ社会は、生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。
街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ。
本当の死が見えないと本当の生も生きられない。
等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。
死は生の水準器のようなもの。
死は生のアリバイである。
MÉMENNTO-MORI
この言葉は、ペストが蔓延り、生が刹那、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたラテン語の宗教用語である。その言葉の傘の下には、わたしのこれまでの生と死に関するささやかな経験と実感がある。
(引用:2008年改訂版 藤原新也「メメント・モリ」三五館 )
新型コロナで一千万人以上が亡くなり、有名人が自殺し、もう録音でしか聴けないあの人の歌声を聴き、祖母が二人亡くなり、両親の老いを感じ、
死を想わずにはいられない。
そして、命の天秤を考えてしまう。
自分にとって関心のない人が亡くなり、多くの人が悲しむと、その人の死を想うのと同時に、僕の中には自分と比べてしまう自分が現れる。
僕が死んだら、"このくらい悲しんでくれる人がいるのだろうか"、と。
亡くなった方の命よりも自分のことばかりになってしまい、嫌になるし、僕を想ってくれる肉親や友人に申し訳なくなる。
でも、亡くなった方は有名人だから、悲しむ人の数としては僕より確実に多い。
そうなると、僕よりその人の命の方が尊いのだろうか?と考えてしまう。
僕の中をもう一度覗いてみると、「命は平等であってほしい」と思う自分と、「自分に関係のない人が亡くなってもそこまで気にしてはいられない」という自分がいる。
"それでいい"ということはわかっている。
遠い人の死は、「等身大の死」とは言い難いだろう。
でも、考えてしまうんだなぁ。
例えば、虫一匹が誰にも思われずに死んでいく。
その虫一匹の命は、尊くはないのだろうか?
人間にとって有益でないものには、害虫と名を付け、殺す。
その害虫と呼ばれてしまうものの命は、尊くはないのだろうか?
宇宙に生命があること自体、尊いのではなかったのか?
いろんなことを、たくさんたくさん、ぐるぐるぐるぐる、考える。
でも、
まずは自分のことでいい。
大切なものを守るためには、自分が健康でなければならない。
これでいいのだ。
祖母のことをまとめたMagazineも、読んでくださったら嬉しい限りです。
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