早稲田の古文 夏期集中講座 第23回 歌人「藤原良経(ふじわらのよしつね)」
藤原良経は百人一首にも採用されている有名な歌人です。
きりぎりす 鳴くや霜夜(しもよ)の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む(新古今集五一八)
しかし、もっと大事なのは後鳥羽院の下に集まった若き歌人達のために摂政としてスポンサー兼プロデューサーのような役割をしたことにあると思います。一二〇一年(建仁元年)七月二十七日、後鳥羽院は和歌所を二百五十年ぶりに復興し、良経はその寄人(よりうど)にも選ばれています。
「和歌に情熱を燃やす後鳥羽院のもとには、身分や立場を問わず、様々な顔ぶれの歌人達が集められた。藤原良経の邸を拠点に活動していた。ニューウェーブの歌人達」とあります。
この時代には「歌合(うたあわせ)」という左右に別れて歌の優劣を競い合う試合のようなものが催され、「新古今和歌集」にもたくさん採用されています。その中でも特に有名なのが、藤原良経の主催による『六百番歌合』と後鳥羽上皇の主催による『千五百番歌合』だそうで、この二つの歌合から百二十四首もの歌が『新古今和歌集』に選ばれているそうです。(同書P29)
何と言っても特筆すべきは『新古今和歌集』の序文(仮名序)を書いたことでこれは天下の名文として高く評価されています。
「やまと歌は、むかし天地ひらけはじめて人のしわざいまださだまらさりし時、葦原中つ國の言の葉として、稲田姫・素鳶の郷よりぞ伝わりける。」というところからはじまり、「昔今つのし時を分かたず、高き賤しき、人を嫌はず、目に見えぬ神仏の言の葉も、うばたまの夢に伝へたることまで広く求め、普く集めしむ」
としています。そして
「春霞立田の山に、初花を忍ぶより、夏は妻恋する神なびの時鳥、秋は風に散るかづらきの紅葉、冬は白たへの富士の高嶺に雪つもる年の暮までに、みな折にふれたるなさけなるべし。しかのみならず、末の露もとの雫によそへて人の世を悟り、玉鉾の道のへに別を慕ひ天ざかる鄙の長路に都を思ひ、高間の山の雲居のよそなる人を恋ひ、長柄の橋の波に朽ちぬる名を惜しみても、心うちに動き、こと(ば)ほかにあらはれずという事なし」
春夏秋冬・花鳥風月のうつろいゆく自然の営みだけであく、民衆の営みに目を向ける、経済世済民の思いがあります。天(あめ)が下平らけく安らけくあれ、という王道政治の理想があるのです。そこには神仏の目に見えぬ言の葉を、受け取り天意に忠実に治道を行うという、神聖政治の原点があるのです。神意天意に逆らうと、天罰が当たるのです。
天神地祇の加護を祈願するのが本来、言の葉の役割です。
「天地(あめつち)を 動かすばかりの 言の葉の 誠の道を きわめてしがな」
この明治天皇の御製歌にある通りなのです。