見出し画像

【図解】私的『人新世の資本論』~定住型農耕国家編~

マルクスが晩年に関心をもったという原始的な協同体における「生活様式」から「資本制生産様式」はどのように発展してきたのだろうか?現在では人類学や考古学の成果により、彼が生きていた頃よりもその変遷を素描することができるようになってきている。今回、自分なりに図解したことを整理してみた。今回は全5回のうちの2回目だ。

私の『人新世の資本論』についての書評はこちら
1回目はこちら


人類にとって大きな転機となるのは、食料が豊富にとれる湿地帯などの肥沃な土地で定住化をはじめ、増えた人口を維持するため、栽培種による農耕や動物の家畜化を本格化させたときだ。

前回ふれた通り、人類が定住を開始してから、農耕や牧畜に依存する生活に移行するまでには、数千年の隔たりがある。本来、繁殖のために種子を散布しやすくできている野生種(そのため種子が茎から剝がれやすい)から、豊富な実りを得られる栽培種へと育成するまでにも同じくらいの期間は必要だった。環境や状況に応じて、狩猟採集、栽培、遊牧のハイブリッドな生活が長く続いたのだ。

人類は豊富な養分を含む肥沃な湿地帯で、少しでも実りのよい種を選別・栽培しながら、多種多様な獲物を捕え、家畜に適した動物を保護し、餌を与え、繁殖させるテクニックを磨いていった。

必要なことは何でも利用し、トライする開拓者として、人類は危険と不確実性に満ちた自然を少しずつ少しずつ改変し、飼い馴らし、自らに有利な環境を構築していったのだ。

こうして次第に定住化していった人びとの暮らしは、常時の移動生活では困難だった多産を可能にし、食料の安定的な確保によって栄養状態が改善され、人口が大幅に増えていくことになった。そのことはよりいっそう、農耕を大規模に展開する必要性を生んだ。

当然のことながら、農地のさらなる拡大は、森林のとめどない破壊をもたらすことにもなった。狩猟採集生活で暮らす人びとが保持していた、自然との共生をもとにした「対称性の原理」は破られるはめになったのである。

しかし、土地を耕し種を植えてから長い期間を経て無事に実りのときを迎えるまで、農作物を厳重に管理するのは殊のほか骨の折れる作業である。皆で食べる一日分の食料さえ採取すれば、厳しく束縛されることもなく暮らせる狩猟採集生活とは比べようもない重労働だったはずだ。

さらに、収穫量が豊富で脱穀すれば貯蔵が比較的容易な穀物は、人々の集住と専門的な職業による分業を可能にした一方で、肥沃な土地や収穫物の収奪を目的とした集団間の争いをもたらした。軍事的な紛争は激しさを増し、戦いによるものとみられる傷跡をもつ死者が顕著に生じるのは、人類が大規模定住による農耕を開始して以後のことだ。

また、集団の規模が大幅に拡大し、紛争が内外で頻繁に行われるようになったことで、集団の結束を促し、成員を統率する宗教的カリスマや軍事リーダーが統治する「都市国家」が誕生した。狩猟採集生活において何とか抑制されてきた、「序列による専横」や「階級による格差」が生まれたのだ。

国家の非エリート階層(臣民)には、農地や穀物の種が「貸与」され、きつい農耕に従事させられる一方で、収穫物の一部は「税」(負債に対する返済=利子)として徴収されることになった。また、これが返せないものは奴隷の身分に落とされた。【1】

また、戦争の捕虜や周辺の遊動民も(あたかも捕獲され家畜にされた動物のように)奴隷や臣民にされ、農地の新たな開墾や神殿などのモニュメントを建設する工事に従事させられるほか、他所の土地や収穫物を奪うための戦争にも従軍させられた。国家がその見返りとして与えたものが「貨幣」である。【2】

臣民への農地の貸与による、税という収穫物の利子付き返済システムは、統治者に多大な富の蓄積をもたらしたはずだ。臣民にとっては、きつい耕作に加え、さらなる国力増大のため、新たな農地を開墾し灌漑を整える労苦はそうとう厳しいものだったに違いない。しかも、気候や干ばつの影響などで不作になれば、それまでのすべての苦労は水の泡になってしまうのだ。

最初期の都市国家に外壁や環濠があったのは、なにも外敵の侵入を防御するためだけではなかったらしい。それは、あたかも"家畜化"する動物を逃がさないために設けた「檻」のように、奴隷や臣民の逃亡を防ぐ目的でできたものでもあったのだ。外に広がる"野生"の世界に逃げ込もうとした人たちがいたことは容易に想像がつく。

残念なのは、こうした非定住民(ノマド)の歴史の多くを知ることができないことである。石造りの巨大なモニュメントをはじめ、文字として記録され残っているのは、文字通り文明化された都市国家によるものがほとんどだからである。

豊かな狩猟採集生活を謳歌していた人びとは、皮肉なことに「自己家畜化」した人びとから「遅れた野蛮人」と称され、侮蔑されてきた。しかし、彼ら遊動民がのちに、異文化をつなぐ交易の民や機動力を持った戦闘の民にもなっていくのである。


【1】
ムギやイネなど特定の穀物が積極的に栽培されたことには、収穫量が管理しやすいという側面もあった。根菜類などのように地中に作物ができてしまったのでは、収穫量の把握が困難になるからだ。

ちなみに、都市国家で用いられた「人類最古の文字」は、徴税官が収穫量を正確に管理しやすくするための印、すなわち「数字」だった。人口や土地の広さ、収穫量の目安、税の請求、滞納の管理など、支配層が消費し、蓄積するための余剰生産物を最大化するツールとして「文字」は積極的に活用されたのだ。

【2】
人類学者のデヴィッド・グレーバーによれば、貨幣の起源は「物々交換」の不便さを補うためではなく、人間関係における「貸し借り」を記録するためのいわば「借用証(いま返せない借り=負債をいずれ相手に返すための証し)」だった。

それを持っている限りにおいて、自分【A】にはいざというときに相手【B】から貸し(例えば捕った獲物)を返してもらえる権利がある、というわけだ。

そして、【A】が別の第三者である【C】から獲物をもらう代わりに、【A】の持つ「借用証」(いつか【B】から獲物を返してもらえる債権)を【C】が受け取ったとき、あたかも【A】と【C】の間で「サービス=獲物」と「貨幣」が交換されているかのような事態が成立しているのだ。

国家は「臣民の働き」(貸し)に対する「見返り」(負債の借用証)として貨幣を渡していたが、当初は穀物などの現物が多かったようだ。

だが、それはのちに、何かと交換する「媒体」として人びとの間で次々と用いられるのであれば、貝殻や鉱物、果てはただの紙切れ(紙幣)でもよくなっていく(ちなみに、資本の「資」は「次」と「貝」、貨幣の「貨」は「化」と「貝」でできている)。

グレーバーの議論が正しいとすれば、人類の貨幣の起源は、はなから人間関係の貸し借りという「仮想通貨」だった。貨幣が通貨として流通するために、それ自体で一定の価値を持つ「現物通貨」である必要があるのは、その返済能力の信用が十分に満たされていないからにすぎない。

では、なぜ国家には(労役や軍事などの見返りに)貨幣という「借用証」(負債)を発行することができたのだろうか?

それは、国家には人びと(に貸与した農地)から「税」という返済利子をいざとなれば強制的にでも集めることができる力があったからである(その力には他所から富を取ってくることも含まれる)。

「最大の債権者」である国家が「最大の負債者」になれる、これが貨幣をめぐる最大のトリックだ。もちろん、国家の「信用力」が万能でないことは歴史のなかで何度も証明されてきたのだが、それはまた後の話である。

(③へつづく)


主な参考・関連書籍


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集