Makoto Okada
読んだ本などについての感想や雑感です。
どうでもいい日々の雑感
認知症にかかわるさまざまな活動を掲載していくマガジンです。
動物よりも植物が好きかもしれません。植物的価値観に憧れます
創造的で豊かな対話を実践するための工夫やヒント
埼玉県坂戸市に引越して思うのは、このあたりはずいぶんと平らだなということだ。埼玉県は西に行けば奥武蔵の山々が連なる場所に突きあたるが、まぁ、総じて平らな印象だ。 坂戸市で一番標高が低い場所は13.1 mで。もっとも標高が高い場所が87.5mで、その差は75 mほどあるが、それでも平均すると 31 mほどだから、正直にいえば「えっ、そんなもの?」という印象だ。 その前に住んでいた東京都稲城市だと標高は平均で80 m(34 m ~ 125 m)だから、ずっと山々している。まぁ
GIS(Geographic Information Systems)、というかQGISを使って、いろいろ遊んでみたいたなと思って、「地理空間情報」に関する本を眺めているのだけれど、測地系に関する言葉にいきなり躓く。 QGISを使うのに、「測地系なんてわからなくても大丈夫!」という気もするのだけれど、「地球の形をジオイド」、「ジオイドに近似する地球楕円体」まではよいとして、準拠楕円体(WGS 84)、日本では日本の経度緯度原点と緯度・経度が一致する地球楕円体Bessel18
学生の頃の授業にパラグラフ・ライティングの講座があった。基本は英語で論文を書くための基礎講座で、一連の文章をパラグラフという単位で構成していくという授業だった。 いまでこそ、大学入試に小論文があるし、「書くことを教える」ことは普通になったのだろうけれど、私が学生の頃は、書くことは秘技というか、個々人の潜在的能力のような扱われ方をしていたのか、書き方を教わるということはなかったような気がする。 もちろん、作文はあったけれど、それは「遠足の思い出」だったり、読書感想文だったり
最近の本にはふりがながないなと思う。子どもの頃はどの本にも結構ふりがなが振ってあって、子どもでも大人の本が読むだけなら読めたような気がする。 小学生のときに夏目漱石の『吾輩は猫である』を読もうとして、子ども版ではなかったのかやたら言葉が難しく、数ページごとに親に「どういう意味?」と聞いていたら、「意味がわからないんだったら読むのを止めなさい」と怒られた記憶がある。 一生懸命に読もうとしている子どもに「わからないなら読むな」というのも、いま考えるとずいぶんと乱暴な言葉のよう
子どもの頃好きだった判じ物に「この漢字は何と読む」というものがあった。当時の一番のお気に入りはこれ。文字通り「点で話にならない」 点が苦手だ。ここでいう点は句読点の「、」だ。どこにつけていいのかとても迷う。読点というぐらいだから読みやすくということなのだが、どうしても一文が長くなりがちで係り受けの関係が複雑な悪文を書きがちなので、読点がやたらと増えてしまう。プロの編集者はどうやっているのだろうか。 もちろん、理屈はある程度わかっている。係り受けを整理して語順を変えたり、一
誤配された手紙のように、まどかしとね著『サイボーグ魔女宣言』が手元に届いたのはいつだったろうか。小さなA6サイズのZINEで、ZINEという距離感が誤配との感覚と結びつく。 誤配だと思うのは、私は魔法使いではなく、ましてや魔女でもなく、そしてサイボーグになるには至っていないからだ。しかし、この小冊子の英文のタイトルは"The Cyborg Witch Manifesto”であり、冊子の文脈上も、ジェンダーその他を乗り越えた先にあるものだから、正確にいえば誤配ではない。ここで
「英語を書こう」とか「英語で書こう」なら、語学習得の手法としてありだなと思う。でも「日本語を書こう」だと「は~?」という違和感しかないことだろう。その通りだ。 会社で仕事をしていれば、それなりに何かと「文章を書く」機会はある。でも、最近はワードで提案書やレポートを書く人は少なく、社内の資料のほとんどがパワポ形式だ。でも、パワポって行間がありすぎて、「日本語を書く」っていう感じじゃないんだよなぁ。 それに仕事とか生活って文書を書くことばかりでもない。冷静に考えると書く機会は
リテラシーという言葉は、読み書き能力という意味だから、日本語のリテラシーという言葉はちょっと格好いいが、身も蓋もなく日本語の読み書き能力ということを意味する。 子どもの頃は、日本語の読み書き能力に差があるとは思っていなかったし、そもそも国語という教科の存在意義は漢字を覚えることぐらいにしか思っていなかった。子どもらしいといえばそうだが、まったく困っちゃくれた嫌なガキだったのだろう。 学生時代に塾でバイトをするようになって、理系なのに小学生・中学生に国語を教えるという経験を
『独学大全』を読んで一番自分が変わったことは《掬読》ができるようになったことだ。独学大全、技法35の元々の意味からいうと「必要なものだけを読み取る」ということで、技法としては「テキストの中から必要な部分だけを選びだし、読む技術」ということになる。 私ができるようになったのは、パラパラと眺めるという読み方だから、本当は違う。けれど、技法としえの掬読の考え方は、Skimmingだし、その意義は「テキストの必要なところだけを(まずは)読めばいい」という割り切り方にあるのだから、当
元々集中できる時間が短い子どもではあったと思う。それでも好きなことならかなり集中して時間を忘れて没頭することができた。読書もそうだし、アリんこを見つめることもそうだ。 会議は苦手で1.5時間ぐらいが限界で、見えないカラータイマーがなった。それでも1時間半ぐらいはなんとか集中していることができた。 それがどうしたことか。読書にせよ、何にせよ、もうヤバいと思うぐらいしか集中力が持たない。15分。いや、10分くらいかもしれない。 もちろん、netflixで韓国ドラマを見るぐら
先日、免許の更新に行った。 いつもはドロシーと一緒にいく。ドロシーの誕生日と2ヶ月弱ずれているので、いつもは彼女の免許更新のタイミングと自分の免許更新のタイミングの重なる時期があるからだ。 今回もそのつもりだったのだけれど、ドロシーの更新に付き合って警察に行ったら、写真を撮る段階で「あれ、あなたはまだ更新の時期じゃないですね。気がつかなくてすいません!」となってしまったのだ。 なので改めて一人で警察署に行った。まぁ、世間的には「一人で行けよ!」ってことだし、その通りだ。
魔が差して、という他はないのだ。半年かけてハイデガーの『存在と時間』を読む読書会に申し込んでしまった。 正直にいえばハイデガーに興味がない。単純に好き嫌いを問われれば、高校生の頃に読んだニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を再読したい。 『ツァラトゥストラかく語りき』は、高校のドイツ語の授業のテキストだった。期末試験とかは結構いいかげんで、「冒頭部分を1ページ覚えて書くこと」と課題指定型だった。だから今でも冒頭部分はそらでいえる。 ごめん、ちょっと盛った。上記のツァ
2024年11月10日(日)晴れ。 いつもは日曜日の早朝読書会の雑談タイムに参加するのだけれど寝坊した。気づいたらもう8時少し前で、今から参加してもちょっとなという時間。風邪を引いてしまって夜が胸苦しいかったり咳がでたりと少し寝不足。 午前中は、先日から読んでいる『転生令嬢と数奇な人生を』の続きを読む。なんだかんだ言いながら、他にも読むべき本はあるのに1巻から読み始め、今日で最終巻(第6巻)に至る。 『転生令嬢と数奇な人生を』は表題通り転生ものなのに、チート感があまりな
直接仕事をしたことはなかったけれど、会社の先輩にあたる小川さんとビールを飲みながら、自然教育園の矢野さんが、「自分の経験から教科書に書いてある実験で同じような結果が出たことは、これまでいろいろやってみたけれどたった一度しかなかった。自然観察の基本は、自分でもやってみること。うまく行かなかったり、違う結果が出たりする。そこでいろいろと考えると本当のことがわかってくる」と言っていたという話をした。 技術畑出身の小川さんは、その話をよくわかってくれた。その上で、こんなことを言われ
2024年11月7日(木)晴れ。 ちょうど1年前の今頃、ドロシーと軽井沢に行った。雲上池のあたりを散策した後、少し足を伸ばして万平ホテルでお茶でも飲もうと思ったのだけれど、ちょうど改装中でそれは叶わなかった。工事中とある場所には「2024年10月2日リニューアル・オープン」とあった。ドロシーとは「10月のリニューアル直後はきっと混むから少し時期をずらしてまた来よう」と話した。 1年が経ち、約束通りリニューアル・オープンした万平ホテルでドロシーとランチをとった。埼玉のうち
河原の土手にあがると、空気はいかにも秋という感じで遠くまで見通せる。公園を通ると葉っぱもだいぶ色づいてきた。 「そういえば、この前、テレビで昭和記念公園やってた」 公園のベンチでドロシーがいう。 「イチョウ並木の葉っぱがすごくきれいだった。今度、行ってみよう?」 「あれ? この前、誘ったとき、関心なかったじゃない。」 「えっ、だって、見せてくれた写真、何これ?普通って感じだったし。そこいくと、プロはさすがよねぇ。」 っち、写真みせたとき「ふ~ん」と感心した風をしたのは社