ハイデガーの手前で
魔が差して、という他はないのだ。半年かけてハイデガーの『存在と時間』を読む読書会に申し込んでしまった。
正直にいえばハイデガーに興味がない。単純に好き嫌いを問われれば、高校生の頃に読んだニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』を再読したい。
『ツァラトゥストラかく語りき』は、高校のドイツ語の授業のテキストだった。期末試験とかは結構いいかげんで、「冒頭部分を1ページ覚えて書くこと」と課題指定型だった。だから今でも冒頭部分はそらでいえる。
ごめん、ちょっと盛った。上記のツァラトゥストラの上記冒頭部分はChatGPTに教えてもらった。それでも当時はそれなりに覚えていたんだ。いまで第一文節、Als Zarathustra dreißig Jahre alt war, しか覚えていない。
当時(から)ダメな子どもだったので、ドイツ語として勉強する気がほとんどなかった。授業ではあてられて「訳せ!」と言われるので、日本語の訳本の該当箇所を読む。
「うーん、岩波の訳はそこちょっと違うから新潮の方がいいかも」と指摘された。教師と生徒は、結構、相互理解できていたのだ。もっともドイツ語の先生は語学が専門ではなく哲学が専門だったので、案外「まぁいいか」と思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、訳書は勢いで全部読んで「面白いな」と思った。だからいまでも「ニーチェは好きかも」と結構自信を持って言える。
ハイデガーの『存在と時間』の読書会に申し込んでしまったのは、イマヌエル君(カント)のせいだ。少し前に『純粋理性批判』の読書会に、これも魔が差して参加して、その結果、「イマヌエル君って案外いいやつ」と思ったのだ。申し込んだ時点では、『純粋理性批判』は「読まずに死んでも後悔しないリスト」に入っていたのに、読了後、勢いで『道徳形而上学の基礎づけ』も読んだし、『実践理性批判』もまだ積ん読だけれど買ってある。あげく、御子柴さんのレクチャーも申し込んでしまった。それぐらいにイマヌエル君は面白かったのだ。
問題はハイデガーの『存在と時間』だ。
なんとなくだけれど、自分には合わない気がする。読書会は申し込んでしまったけれど。
どこが合わないかというと《存在》自体について深く考えるという姿勢が、実はそもそも性に合わない。まだ『存在と時間』の第1部第2章までしか読みすすめていないのに、なんかダメと思ってしまうくらいに、《存在》自体について深く考えるという姿勢に興味がわかない。困ったものだ。
仕方がないので知人が読んでいる堀田純司『僕とツンデレとハイデガー』を先に読むことにした。
まだ途中までしか読んでいないが、“ダメ”サラリーマンの主人公が、美人上司の眼前で事故に遭い、そのままイデア学園の高校生として転生するという、まんまラノベだ。
まんまラノベなのだけれど、ご都合主義的にというか、記号的にというか、お約束というか、登場する哲学者たちはいずれも(美人 or 可愛い)女子高生で、もちろんラノベは嫌いではないけれど、さすがにちょっと取ってつけた感が半端ない気もする。
それでも意外に面白くて、読んだ範囲では、JKのデカルト、スピノザ、バークリ&ヒュームが登場し、この後、カント、ヘーゲル、ニーチェときて、最終章のハイデガーに至る予定のはずだ。当然、この流れだと、カントもヘーゲルもニーチェもハイデガーもJKということになるだろう。
で、意外に面白いと思ったのはデカルト、スピノザ、ヒュームのJKなのだけれど、特にスピノザは、元々、あの『エチカ』のQ.E.Dに「なんだかなぁ~」感という苦手意識が半端なかっただけに、(JKが語る)「あれ、そんなこと言ってるんだ」という驚きがかなりあった。これなら複数回挫折した『エチカ』も読めるかもしれない。そんな風に勘違いするぐらいには面白かった。
次の章は『純粋理性批判』で友達になったイマヌエル君(カント)だし、高校時代の知り合いのニーチェも登場するし、案外とヘーゲルやハイデガーもいい奴と思えるかもしれない。
そうするともしかすると『存在と時間』も、面白く読めるかもしれない。そうだといいなと思う。
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