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「ゆりかごのうた」の黄色い月と白秋
「ゆりかごのうた」第4連の「黄色い月」は、作者北原白秋の幼い頃の記憶とともにあった。
Ⅱ夏
故郷柳河に帰りてうたへる歌
七
病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出
歌集『桐の花』に収録されているこの歌が発表されたのが明治42年9月1日「スバル」9号。白秋24歳のときである。
幼少期の白秋については、第二詩集『思ひ出』(明治44年6月1日)の中の「わが生ひ立ち」で述べられている。
白秋は生まれながらに虚弱な児だったよう。
癇癪が強くて、また外気に触れたり指先に触れられたりしてもすぐ高熱を出すようだったといい、「びいどろ壜」と呼ばれていたそうだ。
やがて「柳河の虚弱なびいどろ壜は何時のまにか内気な従順しいさうして癇の虫ひりひりした児になった。」
そんな児だから、「病める児」とは白秋本人だったのだろう。
さらに、病める児だった白秋が眠ることと月とのかかわりに関する文があるので、少し長いが引用する。
夜になれば一番年のわかい熊本英学校出の叔父がゆめのやうなその天守の欄干に出てよく笛を吹いた。さうして彼方此方の
秣や凋れた南瓜の花のかげから山の児どもが栗毛の汗のついた指で、しんみりと手づくりの笛を吹きはじめる。さうして何時も谷を隔てた円い丘の上に、また円るな明るい月が夕照の赤く残った空を恰度花札の二十坊主のやうにのぼったものである。
(略)
ーーそのパノラマのやうな夜景のなかで、亜剌比亜夜話の會辺伊伝の譚や、西洋奇談の魔法使ひや、驢馬に化された西蔵王子の話を聞かして貰って、さうして縁の紅い黒表紙の讃美歌集をまさぐりながらそのまま奇異な眠に落ちるのが常であった。
(「天守の欄干」とは、文脈から柳河の自宅の穀倉の二階ではないかと思われる。)
そして、「ゆりかごのうた」の第四連、
揺籃のゆめに 黄色い月がかかるよ
この黄色い月とは、白秋自身が病弱だった幼いころに故郷の柳河でハーモニカを吹きながら見た月、穀倉の二階で叔父の話を聞きながら見た月の記憶から生まれたものなのではないだろうか。
☆ゆめじ*こもりうた配信中 さんの子守歌メドレーの2曲目に「ゆりかごのうた」が収録されています。ご紹介します。
(岡田 耕)
【スキ御礼】「ゆりかごのうた」の枇杷と白秋の母
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