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山本芳久『アリストテレス『ニコマコス倫理学』』/稲垣 良典『人格の哲学』

☆mediopos2727 2022.5.6

アリストテレスとトマス・アクィナスは
シュタイナーと深い関わりがある

ちょうど山本芳久による
『アリストテレス『ニコマコス倫理学』』が
100分de名著のテキストとして出され
トマス・アクィナスの『神学大全』を翻訳された
稲垣良典(今年亡くなられた)の名著『人格の哲学』が
講談社学術文庫に収められたところだが

アリストテレスとトマス・アクィナス
それぞれの「友愛」についての捉え方を見ると
アリストテレスの倫理学における「友愛」が
トマスの神学における「友愛」へと
深められていることがわかる

アリストテレスにおいて重要なのは「徳」であり
人は徳を身につけることで幸福を実現できると考えたが
それはカント的な「義務論的倫理学」の対極にあり
「○○してはいけない」というような
禁止に基づいた倫理ではない

そして友愛には
①人柄の善さに基づいた友愛
②有用性に基づいた友愛
③快楽に基づいた友愛
があるが最も重要なのは
①の「善き人」とのあいだの友愛であり

「完全な友愛とは、徳において
互いに似ている善き人々どうしの友愛である」とする
ちなみに「善き人」とは徳を身につけている人のことで
徳を身につけるためには善を求めなければならず
それが「倫理」の基本とされている

こうしたアリストテレスの倫理観は
人間が人間であるためのものだが
トマス・アクィナスは人間を
かけがえのない個としての
「個人」「個体」としてだけではなく
三位一体的な神的なありようとも関係した
「人格(ペルソナ)」から展開させている

「人格(ペルソナ)」は
自らの行為を支配することのできる主体であるとともに
根元的に他者との交わりにおいて存在し
自己を実現し完成するような存在でもある

他者との交わりにおいて存在する「友愛」は
隣人を愛するということでもあるが
それが自己を愛徳によって愛するという
「真実の自己愛」によってはじめて成立し得る
他者を人格として愛する愛は
自己愛の拡大として理解すべきなのだ

その自己愛が自我の肥大ではないことはいうまでもない
そのためにはみずからの思考・認識能力を
かぎりなく高めていくことが求められる

そうした「真実の自己愛」によって他者を愛するということは
善きものとしてみずからの存在を直観し
みずからを広げることによって
みずからを他者に与えるということにほかならない
イエス・キリストがみずからを与えたように・・・

このようにアリストテレスからトマス・アクィナスへ
「友愛」は「個」として善を求め徳を身につけることから
「個」を超えた「人格(ペルソナ)」として
神的に自己を完成させることへと深化されているが

「自己」が対象としてとらえらることはできず
精神が精神自体に常に直接に現存しているように
「他者」を愛するというときの「他者」は
その「交わり」において
すでに対象としての「他者」ではなくなっている

そしてその根本にあるのは「真実の自己愛」であり
カント的な「義務論的倫理学」のような
他律的なものの対極にある
自律的で自由な精神による深化である

シュタイナーが『自由の哲学』において示唆している
倫理的個体主義というときの「個体」も
アリストテレスを経たトマス・アクィナス的な
「人格(ペルソナ)の展開として
とらえることもできるのではないか

■山本 芳久『アリストテレス『ニコマコス倫理学』』
 (NHKテキスト 100分de名著 NHK出版 2022/4)
■稲垣 良典『人格の哲学』
 (講談社学術文庫 講談社 2022/3)

(山本 芳久『アリストテレス『ニコマコス倫理学』』〜「第1回 倫理学とは何か」より)

「アリストテレスの倫理学は、「幸福論的倫理学」と呼ばれます。(・・・)ひと言で言うならば「幸福とは何か」「どうすればそれを実現できるか」を考える倫理学で、違った角度から「徳倫理学」とも言われます。「徳」がギリシア語で「アレテー」と言い、「卓越性」「力量」と訳されることもある言葉です。アリストテレスは、人は徳を身につけてこそはじめて幸福を実現できると考えました。そのため、彼の倫理学では、人間としての力量である徳を身につけることが核になってきます。」

「「幸福論的倫理学」とは、人間の行為や存在の究極目的は幸福にあると考える倫理学です。つまり、人間が様々な行為をすること、またそもそも存在しているということ、その究極の目的は幸福にあると考え、どのように幸福を実現していくかを考える倫理学です。幸福という「目的」が焦点になっているため、「目的論的倫理学」と言われることもあります。そこでは「善」が一つの大きなキーワードになります。「幸福とは最高善である」という言い方がされるように、幸福という最高に善いものを探求していくという立場が幸福論的倫理学です。

 これとしばしば対比されるのが「義務論的倫理学」です。これは読んで字の如く、「○○すべきだ」という義務や、「○○してはいけない」という禁止に基づいて倫理を考える学問です。その代表的論者がイマヌエル・カントです。カントは、人間は義務に基づいた行為をする必要があり、道徳法則に対する尊敬が重要であると主張します。

 「倫理」あるいは「倫理学」という言葉を聞くと、そこに「義務論的」という装飾語が付いていなくても、この義務論的倫理学を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。倫理学とは「○○すべきだ」ということを追求する学問である。そのようなイメージが強いと思うのですが、そうではない、倫理学のもう一つの潮流である幸福論的倫理学について、『ニコマコス倫理学』を読みながら学んでみることによって、人生を前向きに生きるための知恵を獲得しようというのがこのテキストの狙いです。」

(山本 芳久『アリストテレス『ニコマコス倫理学』』〜「第4回 友愛とは何か」より)

「『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの人間観は、ラテン語で表現するならば、 Homo homini amicus となります。日本語に訳すと、「人間は人間にとって友である」という意味です。
(・・・)
 アリストテレスは「友愛は国家をも結びつけ、立法家たちは正義よりも友愛に関していっそう真剣であるように思われる」と述べ、友愛は単に個人同士にとどまらず、社会全体をつなぐ紐帯としての役割を持っていることを示唆します。」

「アリストテレスは、愛されるものが三種類ある(①善きもの②快いもの③有用なもの)ことに対応して、友愛にも三つの種類はあると言います。①人柄の善さに基づいた友愛、②有用性に基づいた友愛、③快楽に基づいた友愛です。

(・・・)

 アリストテレスは「完全な友愛とは、徳において互いに似ている善き人々どうしの友愛である」と述べています。「善き人」とは、徳を身につけている人のことです。」


(稲垣 良典〜『人格の哲学』「序論 人格について語ることの難しさ」より)

「人格(ペルソナ)について語ることの難しさは、「私」あるいは「自己」について語ることの難しさに通じると言えるであろう。「人格(ペルソナ)」と「私」を完全に同一視できるかどうかは問題であるが、「人格(ペルソナ)」の特性とは何より自己意識をもつことであるとされており、また人格(ペルソナ)は意志的で自由な行為の主体を指すという理解が一般化しているところから、「人格(ペルソナ)」と、主体としての「私」はほぼ重なり合うと考えられる。ところで、私が語ることは自明の理であるが、私を語ることは極めて困難である。「私」とは厳密に言って何を意味するのか、本当にそんなものが存在するのか。「私」がこのように問うとき、問う「私」に、「問う私」は直接に現存しているが、「問われる私」はいわば闇にとざされたままである。「私」が「私」について語ろうとすると、語る一人称単数の「私」によって語り出される「私」は三人称の「誰か」と、その「誰か」に属する様々の事物によって置きかえられてしまう。

(・・・)

 自己が自己自身に常に、直接的に、いわば最も親密に現存しているように、精神は精神自体に常に、直接に現存している、と言えるのであり、その意味で精神はたしかに精神を「知っている」のである。しかし、この「知る」は通常、何かを知っているという場合のように、何かを対象として知るという仕方ではなく、そのためそこで知られている精神について語ることは困難なのである。」

(・・・)

「人格(ペルソナ)」について語ることも難しさは、私が私自身に現存している「私」「自己」を認識し、それについて語ることの難しさであり、精神が精神自身に現存している「精神」を認識し、それについて語ることの難しさである。

(・・・)

実は、精神的ないし知的な働きを営む存在は、自己へと完全に還帰するものである、という洞察は古くから(とくに新プラトン哲学の影響の下に)広く受けいれられてきたものであり、「人格(ペルソナ)」も精神的存在であるかぎり、同じような存在の仕方を有する。自己還帰的な「一」は、量的な「一」のように、容易に、通常の対象認識の仕方で認識されるのではなく、したがってそれの認識のためにはわれわれが有する思考・認識能力の強化が必要とされる。それは「自己」認識の困難さを自覚し、それを克服しようと試みた者のすべてが承知していることである。

(・・・)

 広い意味で現象学的アプローチによってつきとめられる人格(ペルソナ)の本質的な特徴は次の二つに要約することができ、そしてそれら二つは相互に矛盾するとは言わないまでも、極度の内的緊張をはらんでいる、その第一は、自らの諸々の行為を支配することのできる主体である、ということであり、自己支配的、自己決定的、自己所有的な行為者と言いあらわすことができる。そして第二の特徴は、この自己支配的な主体は根元的に他者との交わりにおいて存在し、また交わりにおいて自己を実現し、完成するような存在である、ということである。

(・・・)

人格(ペルソナ)の愛というとき、多くの場合、隣人愛が思い浮かべられるであろうが、本書では人格(ペルソナ)の愛は第一に自己愛————自己中心的ないし利己主義的ではない、真実の自己へ向けられた愛————でなければならないということを示唆した。真実の自己とは、様々な欲望の対象へと分散し、はりついている偽りの自己ではなく、自己還帰的な「一」として存在する自己であって、「人格(ペルソナ)」の存在そのものにほかならない。」

(稲垣 良典『人格の哲学』〜「第五章 人格の形成」より)

「私が言いたいのは「人格(ペルソナ)」と「個人」ないし「個体」(indeviduum(ラ)、individual(英)」とは明確に区別しなければならないということであり。この区別をすることなしには、「人格(ペルソナ)の概念を適切に理解することはできない、ということである。

(・・・)

「個人」を存在論的「一」という広い意味においてではなく、「人間」あるいは「ヒト」「ホモ・サピエンス」という種に属する他のすべての人間から区別された「この人間」という意味に解した場合には、そのような「個人」「個別者」の概念と「人格」の概念との間には重大な違いがあることを認めなければならない。その場合、いかに「この人間」「個人」は、人間という種に属する他のすべての者かた区別された、唯一の、かけがえのない存在である、と主張しても、そのことによって、「人格」の概念に含まれている、人格に固有の価値を、「個人」に賦与することはできないのである。

(・・・)

「ここで確認しなければならないのは、「人格」の概念を理解するためには————このことを「人格」の経験が成立するためには、と言い換えてもよい————さきに「知的回心」と呼んだ、人間が精神であり、理性的本質を有することの洞察が必要・不可欠である、ということである。個人の唯一・独自の存在としてのかけがえのない価値について語る人々が、実際に理解してるのは、実は人間が精神であること、理性的本性を有することであるのかもしれない。そうであるとすれば、「個人」と「人格(ペルソナ)」の本来的な、正しい意味を再発見して、それらの間の決定的な違いを確認し、尊重するべきである。

(・・・)

人格を人格たらしめるのは、ひとりの人間が他のすべての個的存在、とりわけ人間という種に属する他のすべての個人から区別された、この個的存在、個人であるということではなくて、個々の人間が精神であり、理性的本質を有することである、という「人格」理解は、人格についての極めて重要な洞察への道を開く。それは、人格は交わり(communicatio,communio)において存在し、生きる存在である、という洞察である。

(・・・)

 交わりにおいて存在し、生きる存在としての人格(ペルソナ)、あるいは存在することがそのまま交わりである人格(ペルソナ)について考えを進めてゆくと、われわれは最終的には神的なペルソナの神秘、つまり二つの三つのペルソナにおいて一である神、という聖書の神、イエス・キリスト(・・・)に行き着く。神は最高に「一」なる神であるが、交わりを拒否する孤独な神ではなく、豊かな、生ける交わりの神であり、自らの知恵と愛といのちの交わりのなかにわれわれ人間を招き入れる神である、というのが聖書の教える神である。」

「真実の自己愛とは、自己を愛徳によって愛することである。ところで愛徳は友愛の一種であり、友愛(amicitia)は何らかの合一(unio)を含意しているが、自己が自己を愛するとき、愛する者と愛される者は合一によって結ばれるというよりは、それ以上に「一」(unitas)なのであるから、自己愛は友愛よりも何かより大いなるものである。実に、「人がそれでもってかれ自身を愛するところの愛が友愛の形相にして根元である」。言いかえると、真実の自己愛を有しない者は、他者を愛徳ないし友愛によって愛することはできないのである。

 したがって、人は隣人よりも自己を————愛徳によって————より愛すべきである、という帰結になる。この言明は多くの人を驚かせるかもしれないが、聖書が教える隣人愛の掟とも完全に合致するのであって、人は自己を愛するように、そのように隣人を愛しなければならないのである。このように真実の自己愛にもとづいて他者にたいする愛を理解することによって、他者を人格として、すなわちその存在そのものを愛することの可能性が明らかに示される。

 なぜなら、真実の自己愛とは、私が自己そのもの、すなわち私の存在そのものを愛することだからである。そして私が私の存在そのものを愛するとは、私の存在が善いものであることを直観して、それを全面的に肯定することにほかならない。

(・・・)

 他者を人格として愛することの可能性を明らかにする根拠は、真実の自己愛のうちに見出されるのであり、他者を人格として愛する愛は、自己愛の拡大として理解すべきである、という洞察は人格の倫理学の中心課題の一つとしての人格と愛の関わりについての明確な理解に寄与するものと言えるであろう。言うまでもなく、自己愛の拡大とは自我の肥大ではなく、むしろ真実の自己愛にもとづいて他者を愛するとは、他者の存在そのものの全面的肯定であるかぎり、むしろ或る意味で自己そのもの、自己の存在を他者に与えることにほかならない。それはたしかに或る意味で自己否定であるが、それによって自己の存在が消滅し、虚無化されるのではない。善は自らをおしひろげることをその本質とする、と言われるように、善いものであるところの存在は自らを与えることによって、かえって自らの完全性を示すのである。しかし、この議論にたち入ることは人格に形而上学に属することであって、人格の倫理学の領域をふみ超えるものであろう。」

(稲垣 良典『人格の哲学』〜「第六章 人格の神学的考察」より)

「「人格(ペルソナ)」概念の問題点は、人格(ペルソナ)はその各々が唯一独自の、自ら存在する主体であることと、人格は他者との交わりにおいて在ることを本質的な在り方とする、という人格の二つの本質側面の間の、矛盾とも言いたい程の緊張関係である。この問題点はたんに理論的なものではなく、人格が他者との交わりのなかで生きるとき、各々の人格の独立主体としての在り方が全体の利益という名の下に様々な制限ないし抑制を蒙り、極端な場合には全面的に否定されるという実践的側面を有することも指摘した。

 このような「存在」と「交わり」との間の、一見矛盾とも思われる対立・緊張関係は、友との交わりに自らの存在の全体を捧げる友愛の行為において実践的に解決されると考えることが可能であり、その場合の「存在」理解は神が「存在」であり、「愛(アガペ)」であるという聖書の教えから霊感を得たものであることも指摘した。このような「存在」理解を前提とした場合、神的ペルソナを「存在・即・交わり」として理解することへの道が開かれ、そのことによって「人格(ペルソナ)」概念がふくむ問題点を理論的に解決することが可能となるのではないか、というのが本章で提示した仮説であった。」

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