見出し画像

斎藤環『イルカと否定神学―対話ごときでなぜ回復が起こるのか』

☆mediopos3624(2024.10.21.)

オープンダイアローグについては

mediopos2732(2022.5.11)で
石原 孝二・斎藤 環 編
『オープンダイアローグ 思想と哲学』を

そして最近ではそれとも少なからず関係している
村澤和多里・村澤真保呂
『異界の歩き方――ガタリ・中井久夫・当事者研究』を
mediopos3585(2024.9.12)/mediopos3593(2024.9.20)
mediopos3595(2024.9.22)でとりあげている

今回とりあげる斎藤環『イルカと否定神学
     ――対話ごときでなぜ回復が起こるのか』は

著者じしんがオープンダイアローグにかかわりながら
なぜ対話するだけで回復していくのか
「対話とは何か、人が変わるとはどういうことか、
そして「回復」にはいったい、どんな意味があるのか」
という哲学的な疑問に対し

ラカン・ベイトソン・バフチン・レイコフ
中井久夫などの思想を駆使しながら
そこに新たに「否定神学」を加えることで
その問いに答えようとした試みとして深く感動的でさえある

ただタイトルにある「イルカ」については
ベイトソンの学習理論をとりあげる際にでてくるだけなので
キャッチャーなやわらかい言葉をタイトルに加えることで
注目されることをねらったのだろう

内容からすれば「イルカ」に代えて
「オープンダイアローグと否定神学」
とするのが妥当ではないかと思われる

さてオープンダイアローグは
「ケア」や「回復」の過程において
「治療者の意図や操作、つまり能動性は、
しばしば阻害要因になる」ということから
「意図や操作の要素を排して、患者の自発性を最大限尊重し、
「偶然」というリソースをめいっぱい活用する」ための
対話実践として開発されたものだが
斎藤氏はそれを
「もっとも洗練されたアプローチだと確信」しているという

本書で論じられ
斎藤氏がそのキーワードのひとつとしているのが
タイトルにもある「否定神学」である

否定神学とは神を論ずる際に
「神は~でない」と神を否定形で語るものだが

神を論ずる場合のように
「人間は、いちばん言いたいことは言わない。
あるいは、言えない。」というもので
「とりわけフロイトからラカンに至る系譜は、
徹底してこの方向性を極めた理論」だという

「心」そのものがまさに
そうした否定神学的な構造を持っていて
間接的・隠喩的にしか語れないということでもある

本書ではそうした否定神学的な
ラカンの視点を批判的にとりいれながら
オープンダイアローグを
クライアントと治療者の「無意識を活用した協働作業」として
精神分析と対話実践を架橋するものとして位置づけている

そのオープンダイアローグにおける
重要な原理の一つが「ポリフォニー」(多声性)

そこで重要なのは「余白」である

モノフォニーやハーモニーには余白がなく
「異質な音が鳴れば」ノイズになってしまうが
ポリフォニーには「どんなミスタッチとも共存可能な余白」があり
「こうした余白があって初めて、
個人は主体的に振る舞うことが可能になる」のだという

斎藤氏はオープンダイアローグにおいて生じていることについて
ベイトソンの学習理論をガイドとしながら示唆を加えている

ベイトソンは学習を「ゼロ学習」「学習Ⅰ」「学習Ⅱ」
「学習Ⅲ」「学習Ⅳ」に分類している

ゼロ学習は試行錯誤などで修正されることのない
単なる行為における学習であり

学習Ⅰはパブロフ条件づけのような普通見られる学習

学習Ⅱは学習Ⅰが繰り返されることで
同時に「学習のコンテクスト」も学習し
「再帰的に維持されやすい」ものとなっている学習

そして学習Ⅲは「学習と逆学習を通じて、
学習Ⅱの起こり方を自在に調節できる状態」

学習Ⅳはさらにそれをこえた
いわばSF的な進化における学習としている

そのベイトソンの学習理論に沿っていえば
統合失調症の回復のためには
学習Ⅱから学習Ⅲへと移行しなければならない

回復が妨げられるのは
「病のコンテクストが固定化」されてしまうことなので
それを「回復」に導くためには
「生じてしまったコンテクストを壊したり、
新たなコンテクストを立ち上げたりする必要」がある

「その作用をもたらす最大の要素が、言語であり対話」だが
「その介入は、意図的、操作的になされうるもの」ではなく
「議論や説得のような方向性を持たず、
ただ固まったコンテクストをときほぐす、
あるいは破壊するような対話」が必要とされる

言語とコンテクストとは基盤を共有していて
コンテクストは「学習Ⅱによって定着し強化される場合、
必ず「身体化」され」る

しかも人間の言語は
原則として一つの意味しか持ちえない記号ではなく
多義的な意味を可能にする隠喩としての働きをもつが
その基盤には「身体」があって
それは「思考全般の土台」ともなっている

「言語のみではコンテクストに呑み込まれ」かねないが
「対話にはポリフォニーという重要な機能があり、
それが言語の作用に強力なブーストをかけてくれる」

ポリフォニーは
声を重ね響き合わせるという「多声性」をもち
身体性において多様な「余白」を
浮かびあがらせることができるのである

オープンダイアローグでは
「目的」や「ゴール」をもたないまま
「対話の継続」が目指され
そのことで治癒や改善へとつながっていくが
そのダイアローグにおいて
そうしたポリフォニーの「余白」があることで
「個人は主体的に振る舞うことが可能になる」のである

たかが対話
されど対話

魔法のようなオープンダイアローグの秘密について
なにがしかの示唆を得ることができたようにも思えるが
人間と心と言葉と対話
ますます謎が深まっていくようでもある
否定神学の如く肝心なことは語り得ないようなそんな・・・

■斎藤環『イルカと否定神学――対話ごときでなぜ回復が起こるのか』
(医学書院 シリーズ ケアをひらく2024/10)

**(「Ⅰ 否定神学をサルベージする/1 対話ごときでなぜ回復が起こるのか?」より)

・はじめに————哲学的疑問

*「目下の私の悩みは、もはやオープンダイアローグの実践と普及の難しさ、ではありません。自分でやっていながら、いまだによくわからないことがあるのです。つまり、「なぜ対話ごときで、精神病が治るのか」という根本的な疑問です。
 たしかに私たちは、複数の患者とともに、着実に回復の道を歩んでいます。オープンダイアローグがあれば、それができる。この点についての確信は揺るぎないものです。
 しかし、「なぜか」がわからない。なぜ対話するだけで、これほどの変化が生ずるのだろう。なぜこんな「ふつうのこと」で、回復が起きてしまうのだろう。
 これはあえていえば、哲学的な疑問です。対話とは何か、人が変わるとはどういうことか、そして「回復」にはいったい、どんな意味があるのか。」

・オープンダイアローグとその思想

*「オープンダイアローグの有効性を理解するうえで役に立つ思想としては、ミハイル・バフチンの「ポリフォニー」を筆頭に、ポストモダン思想としての社会構成主義、リフレクティング・プロセス、ナラティヴ・アプローチ、家族システム理論、最近のものとしては哲学者・國分功一郎の「中動態」の思想などがあげられます。
 本書での私のもくろみの一つは、こうした思想の系譜のなかに、新たに「否定神学」を追加しようというものです。」

・「ポリフォニー」の余白に

*「オープンダイアローグにおけるもっとも重要な原理の一つが「ポリフォニー」(多声性)です。」

「ここで重要なのは「余白」です。
 ポリフォニーには余白がありますが、ハーモニーには余白がありません(・・・)。もし異質な音が鳴れば、ハーモニーのなかではノイズにしかなりませんが、ポリフォニーにはどんなミスタッチとも共存可能な余白があります。
 重要なことは、こうした余白があって初めて、個人は主体的に振る舞うことが可能になる、ということなのです。オープンダイアローグには通常の意味での「目的」や「ゴール」はなく、ただ「対話の継続」が目指されるのですが、結果的にはそれは治癒や改善につながります。そこにこそ、ポリフォニーがうながす主体化の作用が見てとれるように思います。」

・「主体性」の回復が最重要

*「オープンダイアローグの実践をしていて気づかされるのは、その原則において治療者側の「能動性」が、非常に注意深く制御されていることです。

・逆説だらけのオープンダイアローグ

*「・ハーモニーは不要
  ・一体感も不要
  ・複数の声が共存してこそ個の主体性が回復される
  ・ただ「在る」だけで変化が生じる
  ・治療者が能動性を控えればクライアントの主体化が起きる
  ・主体化は集団現象である、等々。

 いずれもオープンダイアローグを実践されている方であれば、それほど違和感なく受け止めていただけることだと思います。オープンダイアローグの実践には、こうした逆接がいたるところに見てとれます。なかでも究極の逆説は「改善や治癒を目指してはいけない」でしょう。」

・オープンダイアローグと精神分析の関係は?

*「本書の最初のもくろみは、「オープンダイアローグの否定神学性」を詳しく検討し、その積極的な意義を確立することです。」

**(「Ⅰ 否定神学をサルベージする/2 「無意識」の協働作業」より)

・肝心なことは、言えない

*「本書のキーワードの一つが、「否定神学」です。」

「人間は、いちばん言いたいことは言わない。あるいは、言えない。
 これが、おそらくもっとも簡単な「否定神学」の説明です。」

「とりわけフロイトからラカンに至る系譜は、徹底してこの方向性を極めた理論といってもいいでしょう。」

・対話実践との決定的な違い

*「治療チームによる対話実践においては、典型的な転移はほ生じません。
 私見では転移の成立には「密室」と「ヒエラルキー(上下関係)」が必須ですが、いずれも対話実践では排除されているためでしょう。解釈も転移もありませんから、抵抗もその徹底操作も必要ありません。」

「方法論としては対照的なところも含みますが、いずれもクライアントと治療者の「無意識を活用した協働作業」である点において共通しています。
 まさにここにおいて、精神分析と対話実践を架橋する「否定神学」の機能が見出されるのではないでしょうか。」

**(「Ⅰ 否定神学をサルベージする/4 こんなに〝使える〞否定神学」より)

・そもそも「否定神学」とは

*「精神分析も対話実践も、ともかく「言葉」を徹底的に重視します。精神病のケアにおいても、患者の語る体験のなかに、共有可能な言葉を持ち込むことを大切にします。その背景にあるのは、ポストモダンを支えた二大思想、「社会構成主義」と「言語論的転回」でした。
 こうした前提のもとで、私たちの心は、「実体」を持たない言語とコミュニケーションによって構成されており、それゆえにこそ「語る主体」としての人間の中核には欠如があると想定されます。人間の欲望や症状の根源にあるものは、まさにこうした欠如や空虚なのだ、という考えです。」

*「ここまでの「否定神学」では、神を否定形で語るということに主眼がありました。」

「「神」に代わって、「無意識」とか「現存在」とか、定義もできず簡単には語り尽くせないキーワードを代入したものが、現在言われているところの否定神学です。」

**(「Ⅱ 構造からプロセスへ/5 「プロセス」をめぐる逆説」より)

・対話実践は「無意識」を問題にしない

*「そもそもオープンダイアローグは、個人の無意識を問題にしません。治療チームの言葉が作用するのは、個人の心以上に、その個人がかかわっているネットワーク(人間関係)です。ただし、ラカンの考える無意識(≒大文字の他者)が、個人に内在化された社会システムであると比喩的には考えられるように、もともと無意識にはネットワークの要素が含まれています。つまり、ネットワークの修復はあくまでも意識的な営みとしてなされますが、実際には無意識にも大いに影響を及ぼしているともいえるわけです。」

・ラカンは「過程」を「構造」に読み替える

*「ラカン理論は「過程」を構造に読み替えることで、結果的に過程論を回避ないし排除しているということになります。

・「プロセスを信じなさい」

*{オープンダイアローグは、まさにその「過程」に注目します。対話やケアが治療として機能するとすれば、それが一つの過程だからです。これをprocess-orientedといい、goal-orientedの対義語とされています。」

「その過程を促進し、みずから過程に積極的に巻き込まれることこそが、対話実践における治療者の役割、ということになります。」

・過程を一口で語れば「逆説」になる

*「私はここで、一つの仮説を提示したいと思います。それは「過程」を横断的・無時間的に語ろうとすると、それはしばしば「逆説」になる、ということです。」

・ノープランだとうまく行く理由

*「こうした逆説の最たるものが「不確実性に耐える」でしょう。前もって一切プランを立てず、過去のデータも参照せず、結果を評価せず、ただ目の前の対話のプロセスに没頭せよ、ということ。不確実性に耐えられないからこそ、私たちは予測し、計画を立て、過去に学び、結果を評価しては次の予測に役立てようとします。」

「この逆説をまとめていえば「意図や目的を〝捨てる〟ことで、意図や目的は達成できる」ということになります。」

「つまり対話実践において治療チームは、目的をいったん「場」に預けることで目的の追求をやめられている。「場」は過程が成立するためのフレームですから、治療チームは治療という目標をフレームに担保させる(=捨てる)ことで、フレーム内において過程にすべてを委ねることができるのです。」

**(「Ⅱ 構造からプロセスへ/7 バフチンにおける対話と「プロセス」」より)

・バフチンのプロセス志向

*「バフチン理論においてはほとんどプロセス=対話となっています。つまり、プロセス志向のオープンダイアローグが対話であることは、つねに自明の前提なのです。
 また、バフチンにおける精神分析、または無意識に対する批判的態度からは、オープンダイアローグがそのルーツの一つに精神分析を位置づけながらも、手法面では精神分析的な要素をほとんど切り捨てているように見える理由も推測できそうです。」

・バフチンの限界————隠喩と身体の不在

*「バフチンが想定していた「無意識」は、基本的にフロイト的な無意識です。つまり、意識と対比されるような無意識を意味しています。
 いっぽう、私が本書で否定神学の代表格とみなしているのは、ラカン的無意識、つまり象徴界です。ラカン理論においては意識も無意識も「象徴界」の否定神学的構造を共有しています。それゆえバフチンがフロイト的無意識を切り捨てたとしても、「象徴界」を切り捨てることになりません。そしていうまでもなく、言語のやりとしても対話もまた、象徴界の構造を活用しています。
 ここにおいて私は、言語の隠喩的特性が重要になると考えています。」

「また、隠喩の機能を考えるうえでは「身体性」も重要なファクターですが。これもバフチンが十分論じているとはいえない領域です。」

**(「Ⅲ よみがえる身体/8 対話における身体性」より)

・ハンセン→アンデルセン→セイックラという系譜

*「ハンセンらはNPMP(ノルウェー式精神運動理学療法)なる治療法の開発者で、この治療法にいては、身体は意味や記憶の宝庫とされます。身体化された記憶を表現することはそれ自体が治療的なので、傾聴と対話が人を癒やすのはこのためである、と考えられています。」

・ラカンとの接合点————隠喩としての言語

*「アンデルセンは対話において、それがいかに身体性を必要としており、とりわけ呼吸のありようについては、いささか過剰に思えるほど重視しています。ここで私が興味深く思うのは、彼が対話におけるメタファー(隠喩)の機能についても注目していたことです。」

「アンデルセンは、対話のプロセスにおける身体性のありようと、その隠喩性をことのほか重視していました。」

「この原則を一気に、言葉と対話全般に広げたらどうなるでしょうか? つまり、「言葉はすべてが隠喩であって、その隠喩性が成立するためには、つねに身体性が不可欠である」という考え方です。じつはこの点が、本書後半の主題であり、これこそが対話の否定神学性につながる基本アイディアとなっています。」

・多義性と不確定性

*「言語も記号の一種であるとみなす立場もありますが、少なくとも精神分析的には、この二つは完全に別物です。
 一つの記号は原則として一つの意味しか持ちえませんが、シニフィアン(≒言葉)は、つねに多義的であう。さらにいえば、シニフィアンはつねに意味の不確定性をはらんでいるたえ、「猫=誘惑者」のような、辞書的定義からはみ出しつつも万人が共有可能な意味を次々と生み出すことができます。
 私の考えでは、こうした隠喩を使用する能力において、人間には圧倒的な優位性があります。動物は記号までは使用できますが、隠喩は決して使用できません。」

「ついでにいえば、人工知能にも同じような限界があります。AIも本質的な意味での「否定」を理解できないがゆえに、「意味」を理解できないのです。」

**(「Ⅲ よみがえる身体/9 隠喩と身体」より)

・イメージ・スキーマとは

*「言語学者のジョージ・レイコフれは、まさにメタファー(隠喩)の基盤に身体があることを提唱しています。」

「運動感覚的イメージ・スキーマ」とは、身体的な経験に直接結びついた心的構造(図式)のことです。この構造が、私たちの主体と環境の関係を決定づけている、と考えたのです。」

「イメージ・スキーマには「中心/周縁」「部分/全体」「内/外」「遠/近」「上/下」「バランス」などがあります。
 たとえば「上/下」のイメージ・スキーマについていえば、それは私たちが日々経験している上下についての知覚や活動によってもたらされるわけです。」

「私たちは深く考えることなしに「上がる/下がる」「高い/低い」などと言っていますが、その意味は頭のなかだけで生じたわけではありませんし、脳に先天的に備わったものでもありません。高さの知覚や、登ったり降りたりする運動の経験を繰り返すこと、つまり身体感覚をベースにして、スキーマ(経験のとらえ方)がかたち作られていくのです。」

*「言語を使用する際、特に論理的に話す場合に重要なのが「因果関係」のイメージ・スキーマです。(・・・)レイコフは先の本で特に触れていませんが、私はここにも身体が絡んでいると考えています。」

「ここから先は私の推論ですが、ここに「受動/能動」の認識の起源があるのではないでしょうか。杖をゆるく持つときは受動なので、環境の影響を受けやすくなります。しかし強く持っているときは、歩行は主体の動きを能動的に実現します。つまり「受動/能動」のイメージ・スキーマも身体を経て獲得・発揮されるということになるわけです。」

**(「Ⅲ よみがえる身体/10 身体が思考する」より)

*「レイコフは人間の「概念化の能力」について、おおむね次のように述べています。
 現実を記号に置き換える際にも「基本レベルの概念」と「イメージ・スキーマ」が活用されます。外界の現実から内界の抽象的な領域に構造が投影され、量や目的などの概念も、この過程でもたらされます。さらにイメージ・スキーマを用いることで、複雑な概念やカテゴリーが形成されます。この能力によって、私たちは抽象的で複雑な概念操作や、さまざまなカテゴリーへの分類操作などができるようになります。」

「人間の思考の基本には「イメージ・スキーマ」と「基本レベルの概念」という二つの柱があります。いずれも人間の身体性と深い関係にあり、身体抜きには成立しません。この二つの柱にもとづいて、人間がものごとを抽象化したり、概念化したり、概念を操作してさらに複雑な思考を組み立てたり、ということは可能になります。

 以上より、人間の「身体」は、言語=隠喩を基礎づけるばかりではなく、思考全般の土台でもあることがはっきりしました。」

*「私たちが対話する際に「聞くと話すを分ける」などといったことが可能なのも、喉頭と舌と口唇を用いた「話す」という運動の自己所属感なしにはありえないでしょう。もちろん物を書く際にもこうした感覚は重要です。さらに大胆な推測をするなた、「物事を考える」場合にすら、これに近いことが起きている可能性があるのではないでしょうか。
 私は「考える」という行為が「語る」行為から二次的に生じたのかもしれないと考えています。ちょうど書物の「音読」から「黙読」が派生したように、です。
 そうだとすれば、「考える」とは、「語る」行為から遠心性情報のコピーだけを取り出したもの、ということになります。思考に依拠する知性のあり方も、その起源に「話す」という身体的な行為があったことになります。」

*「哲学者ジャック・デリダが提唱した「差延」という言葉があります。」

「自己同一性を「私は私である」と表現した場合、主語の「私」と述語の「私」は同じと考えてよいでしょうか。普通は同じでよいことになりますが。デリダはそうは考えませんでした。述語の私は主語の私によって対象化された私であり、そこには時間差が入り込みます。(・・・)簡単にいえばこが「差延」です。」

「差異的自己は、いつも「私ではない私」を生み出しつづけながら、自分自身でありつづけるのです。
 しかしそれではなぜ、「差異的自己」が「同一」であるといえるのでしょうか。」
「私は、ここで同一性を担保しているものは、自己の統合性、すなわち〈容器〉のイメージ・スキーマではないかと考えています、「内/外」の区別が不変であるのなら、内側で生じた少々の差異はなにほどでもない、ということですね。
 つまり「差異的自己の同一性」もまた、身体のトポロジカルな同一性によって支えられている、ということになります。」

**(「IV 逆説とコンテクスト/11 「他者」の逆説」より)

・言語の有害性と万能性について

*「本書における「脳」「心」「自然言語」「コンテクスト」「身体性」といった言葉の関係性を、ここで整理しておきます。」

「「脳ーコンテクスト」と「心ー自然言語」という二つのOS、それも作動原理がまったく異なる二つのOSがあり、行動や症状については、それぞれのロジックで一貫性のある記述が可能となる、ということになります。
 このとき、いずれのOSも、末梢からの感覚入力なしには作動できません。本書でいう「身体性」とは、主としてこの末梢からの感覚入力を意味しています。心が成立するには言語が不可欠であり、レイコフらが明らかにしたように、言語が成立するには末梢としての身体が欠かせない。」

*「精神療法において重要なのは、「自然言語」という暴力的かつ切断的な、つまり否定神学的なツールをうまく用いることで、「脳ーコンテクスト」のレリジエンスを引き出し、あるいは賦活することではないか。そういう単純な仮説の検証が、本書の一つの目的でした。
 「脳ーコンテクスト」を賦活するのは、(・・・)否定神学エンジンによって駆動される「自然言語」の逆説的作用が、どうしても必要となるのです。」

・他者の異質性が対話可能性に変わるとき

*「「対話実践」を支えているのは否定神学的な構造です。ただしそこには複数のレベルがある。
 第一には、言語そのものの否定神学的構造(・・・)。第二に(・・・)「他者」の逆接的・否定神学的な存在論」があります。そして第三が(・・・)「他者の変化」が要請する否定神学的な論理構造、すなわち「プロセス=逆説」です。
 他者に接近するんは、言語そのものがはらんでいる逆接的な機能をフルに活用する必要があります。」

*「勝とうとしない、すなわち「治療を意図しない」ことの逆接的な効能のもあた、否定神学的に担保されています。どういうことでしょうか。
 オープンダイアローグの七原則中でもっとも重要と考えられる「不確実さに耐える」という原則があります。これは単に「確実な見通しが持てない状況に耐える」ことのみを意味しません。「目指すげき目標を空白にしておく」という、いわば時系列的な意味での否定神学的な構造に積極的な意味があるのです。」

**(「IV 逆説とコンテクスト/12 心は「コンテクスト」にしかない」より)

・心はコンテクストに依存する

*「私の考えでは、「心」というものについて、それを直接語ることは決してできません。(・・・)「心」については間接的にしか、つまり隠喩的にしか語れません。これは「心」自体が否定神学的な構造を持っているためと考えられます。」

*「逆接的なことに、心を語る人は身体のことを忘れているし、身体を語る人は心の存在を忘れがちです。心と身体の関係はそのようになっている。心は身体の隠喩を用いなければ語れませんが、身体についてもまったく心と無関係に語ることは難しい。心と身体の関係は相互排除的、というよりは相即的です。一方が必ず一方を呑み込む形でしか語れないのです。」

・コンテクストは「脳」に由来する

*「私は「心」と「コンテクスト」を同列に考えています。つまり心は、実体をともなわないという意味において、どこまでもコンテクストでしかない。この点は(・・・)「人格」」や「症状」がコンテクストであることと同じ意味です。」

**(「IV 逆説とコンテクスト/13 ベイトソンの学習理論」より)

・イルカは何を学ぶのか

*「本書では「コンテクスト」の語を、基本的にベイトソンの学習理論に依拠して用いています。」

・「論理階型」と「コミュニケーション」

*「彼は学習を「ゼロ学習」「学習Ⅰ」「学習Ⅱ」「学習Ⅲ」「学習Ⅳ」に分類しました。」

・ゼロ学習————反応が定まっている

*「これは「試行錯誤によって修正されることのない(単純または複雑な)一切の行為が立つ領域」であり、この過程では「反応が一つに定まり、それが正しかろうが間違っていようが動かすことができない」とされています。

・学習Ⅰ————反応の定まり方が変わる

*「これは「反応が定まる定まり方の変化」のことで、古典的パブロフ条件づけ、道具的条件づけなど、心理学のラボでもっとも普通に見られる学習を指しています。

・学習Ⅱ————分節化が代わる

*「学習Ⅱは「学習Ⅰの進行プロセス上の変化」と定義されています。学習Ⅰが繰り返されると、学習効率が向上し、学習の速度がはやくなります、(・・・)このとき学習する主体は、同時に「学習のコンテクスト」も学習しているわけです。それは選択肢群(=コンテクスト)そのものが修正される変化であり、経験の連続体が区切られる(つまり「分節化」)、その区切り方(=コンテクスト)の変化でもあります。」

・学習Ⅱは再帰的に維持されやすい

*「ここで重要になってくるのは「学習Ⅱの学習内容が、それ自体を妥当化する働きを持つ結果、このレベルでの学習は一度なされてしまうと、根本から消し去ることはほとんどできなくなる」という指摘です。これは学習Ⅱの過程が、一種の再帰的・自己組織的作動によって維持されていることを意味するでしょう。」

・学習Ⅲ————前提の入れ替え

*「学習Ⅲは「学習Ⅱの進行プロセス上の変化」で、選択肢群がなすシステムそのものが修正される変化です。すなわち、学習と逆学習を通じて、学習Ⅱの起こり方を自在に調節できる状態のことです。このとき学習と逆学習とのあいだで板挟みになることをダブルバインドと呼ぶわけです。」

・学習Ⅳ————SF的進化のイメージ

*「学習Ⅳは学習Ⅲに生じる変化」ですが、ベイトソンは「地球上のいかなる成体の生物もこのレベルには達しない」と見ています。ただし「進化のプロセスがこのレベルに踏み込んでいるかもしれない」とつけ加えています。」

・ダブルバインドからの抜け出し方

*「ダブルバインドが示しているのは、第一に「コミュニケーションには階層性がある」事実です。
 その階層性は、学習理論の階層性と重なります。」

「より本質的な解決のためには、「学習Ⅱのありようを変化させる」べく、学習Ⅱのメタコンテクストである学習Ⅲのレベルに到達することが要請されることになります。」

**(「IV 逆説とコンテクスト/14 対話と逆説」より)

・コンテクストを揺さぶるもの、それが対話

*「たとえば、統合失調症の回復を妨げるのは「病のコンテクストが固定化すること」「新たなコンテクスト学習(逆学習を含む)は起こらないこと」と考えられます。(・・・)治療においては、生じてしまったコンテクストを壊したり、新たなコンテクストを立ち上げたりする必要があります。
 その作用をもたらす最大の要素が、言語であり対話なのです。言語のみではコンテクストに呑み込まれかねませんが、対話のプロセスがそれを呼ぼうしてくれるでしょう。(・・・)対話にはポリフォニーという重要な機能があり、それが言語の作用に強力なブーストをかけてくれるからです。」

*「脳を含む身体には、「心」にはない自然治癒力が備わっていると私は考えています。しかし心が病むとき、その「発病のコンテクスト」を転換する力は、おそらく脳や身体そのものには十分に備わっていません。コンテクストにはそれ自体を強化する作用しかないためです。ときには言語や対話が、病のコンテクストを強化してしまう可能性もあります。
 しかし、ここで有効な介入をもたらす要素もまた、言語であり対話実践なのです。ただしその介入は、意図的、操作的になされうるものではありません。議論や説得のような方向性を持たず、ただ固まったコンテクストをときほぐす、あるいは破壊するような対話です。
 そこでは、逆説やポリフォニーがその真価を発揮しまう。モノフォニーもハーモニーも、コンテクストの押しつけと強化になりかねないという点で問題がある。新たな意味を、新たなコンテクストとともに立ち上げる主体性は、「コンテクストのポリフォニー/ポリフォニーのコンテクスト」のもとでこそ生成するでしょう。
 オープンダイアローグにおけるリフレクティングは、まさにそのために機能するような強力な「コンテクストマーカー」になります。」

・言語化とか逆説化である

*「脳において学習Ⅱを介してもたらされた(と記述されうる)コンテクストは、「小さな真理」として機能します。性格、主観、トラウマ、症状といった「真理」として、です。それはあくまでも、「その個人にとっての真理」でしかありませんが、個人の行動原理に与える影響の大きさという点からいえば、「普遍的真理」の比ではありません。
 この意味で「治療」や「ケア」という行為は、こうした「小さな真理」になにがしかの変化を求める行為ということができます。そのためには、(・・・)コンテクストに揺さぶりを掛ける必要があります。ただ「客観的真実」や「エビデンス」をぶつけるだけでは、小さな真理はびくともしません。」

「コンテクストを確実に揺さぶるためになさればきは、第一に「言語化」です。」

「言語化というプロセスは、自然言語が持っている否定神学的機能ゆえに、その対象に「逆説化」ともいうべき作用を及ぼします。」

・逆説だらけのべてるの家

*「私がもっとも魅了される逆説の応用例は、なんといっても「べてるの家」でなされている「支援スタイル」です。そこではまさに「治療」そのものをカッコに入れた、じつに豊かな「支援」や「援助」がなされている。
 べてるの家の理念は、まさに逆説だらけです。
 問題だらけでも、「それで順調」と考える。「悩む力」を取り戻すことが望ましいとされている。「勝手に治すな自分の病気」などという標語まであります。
 いや、そもそもべてるの家ではじまった「当時者研究」そのものが、多くの逆説に満ちています。」

・治りたくない————自己愛の逆接的構造

*「「治る」ということは自己に大きな変化を呼び込むことです。そして自己愛は、本質的に変化に抵抗するものです。」

「治療目標は治療においてもっとも重要なものであると同時に、治療を疎外する最大の要因であるかもしれないという意味で、ここにも否定神学的な逆説構造が見てとれます。」

**(「IV 逆説とコンテクスト/15 コンテクストの転換に向けて」より)

*「オープンダイアローグで「プロセス」と呼ばれる現象は、「コンテクストの転換」がその本体、あるいは重要な契機なのではないでしょうか。その意味でプロセスは、「物語」や「ナラティヴ」とは異なっています。
 もしこの仮説が正しければ。治療やケアにおいてなされるべきことの一つとして、「コンテクストの理解」と「コンテクストの揺さぶり」があるでしょう。

・「小さな真理」はなぜ強固か

*「サイコセラピーの機能は、なんらかの形で学習Ⅲのプロセスを賦活して、学習Ⅱによって固着してしまった症状(=コンテクスト)をときほぐすことです。」

・言語という「嘘」の効用

*「ではどうするのか。それこそが対話なのですが、その入口に「言語化」があります。
 対話の機能の一つがコンテクスト(学習Ⅱ)の言語化です。「一つの真理」として患者にとりついているコンテクストに、言語化によってほんの少しの「嘘」を注入するのです。それを可能にするのが、言語という否定神学エンジンの作用です。このエンジンの素晴らしい性質は、すべての「小さな真理」を、逆接的真理という形式に置き換えてしまうところです。

・基盤としての身体

*「「コンテクストの言語化」が、不完全ながらも可能になるのは、言語とコンテクストとが身体という基盤を共有しているためもあるでしょう。(・・・)コンテクストは、学習Ⅱによって定着し強化される場合、必ず「身体化」されます。トラウマ体験が身体化されるのはその好例といえるでしょう。

・「回復」で何が起こっているか

*「「回復」のポイントは、学習Ⅱの結果として生ずるコンテクスト、すなわち「小さな真実」を揺さぶることにあります。」

「コンテクストそれ自体は、自分自身を強化する以外の変化を起こすことができません。それを可能にするのが対話であり、対話を構成する自然言語の否定神学的な機能です。その意味で対話とは、言語の否定神学性を最大限に有効活用するためのプロセスとみなすことも可能です。」

「この過程に備わった逆説を記述するうえでも、言語の否定神学性が優れた機能を発揮します。ここで私は思い浮かべるのは、コンテクストと回復過程が、逆説を介して共振を起こすようなイメージです。」

「そこで重要になってくるのが、能動性を囲い込み、プロセスの不確実性を最大限に高め、コンテクストに余白をもたらすポリフォニーの機能です。」

「ポリフォニーの「余白」とは、無意味、かつコンテクストフリーな空間のことです。余白の存在を学習するということは、「コンテクストの共存可能性」を意識せずに受け容れることを意味します。つまり余白は。「コンテクストがつねに真理とは限らない」というメタコンテクストの学習につながるのです。
 メタコンテクストの受容は、すべての「小さな真理」がはらむ逆説を身体に差し戻します。ここで新たな学習のスタイル、すなわち「逆説的真理の学習」という意味での学習Ⅲが成立します。学習Ⅱが、学習Ⅰの集積によってもたらされる性格や症状という「真理」をもたらすのであれば、学習Ⅲはそうした「真理を着脱可能なものにしてくれるでしょう。ちょうど私たち専門家が、自身の専門性を「脱ぎ捨てる」ことを学ぶようにです。そう、その意味で学習Ⅲもまた、対話がもたらす相互的な過程と考えることができるのです。」

□【目次】

Ⅰ 否定神学をサルベージする

 1 対話ごときでなぜ回復が起こるのか?
 2 「無意識」の協働作業
 3 ジャック・ラカンの精神分析
 4 こんなに〝使える〞否定神学

Ⅱ 構造からプロセスへ

 5 「プロセス」をめぐる逆説
 6 逆説・プロセス・システム
 7 バフチンにおける対話と「プロセス」

Ⅲ よみがえる身体

 8 対話における身体性
 9 隠喩と身体
 10 身体が思考する

IV 逆説とコンテクスト

 11 「他者」の逆説
 12 心は「コンテクスト」にしかない
 13 ベイトソンの学習理論
 14 対話と逆説
 15 コンテクストの転換に向けて

○斎藤環(さいとう・たまき)
1961年岩手県生まれ。精神科医。筑波大学名誉教授。主な著書に『文脈病』(青土社)、『社会的ひきこもり』(PHP新書)、『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、第11回角川財団学芸賞)、『オープンダイアローグとは何か』(著訳、医学書院)、『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』(水谷緑氏との共著、医学書院)、『開かれた対話と未来』(監訳、医学書院)、『中井久夫スペシャル』(100分de名著、NHK出版)、『「自傷的自己愛」の精神分析』(角川新書)ほか多数。共著に『心を病んだらいけないの?』(與那覇潤氏との共著、新潮選書、第19回小林秀雄賞)、『いのっちの手紙』(坂口恭平氏との共著、中央公論新社)、『臨床のフリコラージュ』(東畑開人氏との共著、青土社)などがある。趣味は映画、現代アート、マラソン、猫を愛でること。

いいなと思ったら応援しよう!