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目崎徳衛『漂泊』/近藤祐『漂泊者の身体/ポール・リクールで読み解く 西行・芭蕉・放哉』/『尾崎放哉全句集』/三木清『人生論ノート』/國分功一郎『スピノザ エチカ』

☆mediopos3535(2024.7.22)

芭蕉は『奥の細道』をこんな言葉ではじめている

 月日は百代の過客にして、
 行かふ年も又旅人也。

そうしてひとは「漂泊」を事とする

実際に「旅を栖とす」ることがなくとも
「得体の知れないある奥底からの衝動」から
漂泊に駆り立てられる

『漂泊』の著者・目崎徳衛は
その衝動を「デーモン」の促しだとするが

日本の思想史には三つの類型があるという

第一の類型は「神・仏・キリストなど、ある絶対者に帰依して
解脱・救済を求めようとする宗教的志向」

第二の類型は「天皇・主君あるいは何らかの主義・集団
などのための没我的に献身しようとする政治的・社会的志向」

第三の類型は「いかなる既成の思想や信仰にも規制されない
生の実相を、冷酷に凝視しようとした志向」
「人生に目的や結論を性急に求めるのでなく、
与えられた一日一日を味わい尽くし、
歩き通そうとする立場」である

「漂泊」はこの第三の類型にあたり
「精神の営み」「内面の動き」における衝動としてあらわれる

言葉を換えていえば「自由」への衝動であるともいえる

近藤祐『漂泊者の身体』は副題に
「ポール・リクールで読み解く西行・芭蕉・放哉」とあるように
そんな「漂泊」への衝動を
「西行・芭蕉・放哉」といった「漂泊者」として生きた文人たちの
「意志」と「非意志」の視点から読み解こうとした試みである

漂泊者に共通しているのは
「漂泊を希求する自らの「意志」」ではあるだろうが
必ずしも「まったくの自由意志で漂泊者となったわけではない」

漂泊するにせよ「定住」するにせよ
「まったく自由な意志など人間には存在しない」からである

漂泊しようとして漂泊するとはかぎらず
「たとえば社会にあることのどうしようもない居たたまれなさ、
人間集団にあってごくごく普通に生きていくことができない
という嫌悪感など、理性では割り切れない生理的・身体的な何か」
からでもある

漂泊者はさまざまな「葛藤」を抱えながら
「漂泊」という「デーモン」の促しに身を委ねている

そんな「漂泊者」の「衝動」とは如何なるもので
その果てにはどんな世界が開かれているのだろう

そのひとつの姿として
近藤祐『漂泊者の身体』では
尾崎放哉の

  入れものが無い両手で受ける

という句の開示するものが示唆されている

「何かが「初めから失われているように感じられる」自分を、
まさに両手を入れものにして受け入れる」
そんな意志/非意志の深淵にある「漂泊者」の「衝動」・・・

漂泊者の衝動における「自由意志」とは異なるが
ここで少しばかりスピノザの『エチカ』で示唆されている
「自由」についてみておきたい
(以下は國分功一郎の『スピノザ エチカ』より)

スピノザのいう「自由」は
完全に能動的になるという意味での
「自由意志」を意味する「自発性」ではない

「私たちは周囲から何らかの影響や刺戟を受け続けている」ため
「純粋に私の力だけが表現されるような行為を
私が作り出すことはでき」ない
「完全に能動であるのは、自らの外部を持たない神だけ」なのである

その意味でスピノザは「意志の自由」も「自由意志」も認めないが
「一つの行為は実に多くの要因の影響下に」あり
そのなかでさまざまな「意識」をもつことはできるという

そして「言葉で説明できるのは能動性まで」であって
自由は「言葉で説明されるのではなくて、経験されるもの」だという

「漂泊者」の衝動も「実に多くの要因の影響下に」あり
「言葉で説明されるのではなくて、経験されるもの」だとしても
その意志/非意志の狭間における「漂泊」という「経験」を
なんとか言葉にしようとしたのが
「西行・芭蕉・放哉」のような人たちでもあったのだろう

そしてそれは第一の類型である
「宗教的志向」をもつことがあるとしても
それとは異なった
第三の類型としての「精神の営み」にほかならないといえる

それは三木清が「到達點」や「結果」をのみ問題にすることなく
「平生の實踐的生活から脱け出して純粹に觀想的になり得る」
という「未知のものへの漂泊」だともいえる

■目崎徳衛『漂泊』(角川選書 昭和五十三年五月 四版)
■三木清『人生論ノート』(新潮文庫 昭和四十九年十二月 五十刷)
■近藤祐『漂泊者の身体/ポール・リクールで読み解く 西行・芭蕉・放哉』(彩流社 2024/4)
■尾崎放哉(伊藤完吾・小玉石水集)『尾崎放哉全句集 決定版 新装版』(春秋社 2002/2)
■國分功一郎『スピノザ エチカ』(100分 de 名著 NHK出版 2018/11)
■國分功一郎『スピノザ――読む人の肖像』(岩波新書 2022/10)

**(目崎徳衛『漂泊』〜「序章————人生の旅人」より)

*「「漂泊の思いとは何か」と問われたならば、(・・・)芭蕉のいくつかの箴言を想起するだろう。」

「人を漂泊に駆り立てるのは、得体の知れないある奥底からの衝動である。(・・・)芭蕉が古今の大漂泊者とみられる理由の第一は、このデェモンが強烈に生涯を支配しつづけたことにある。しかし、そうしたデェモンは多かれ少なかれ万人の内に潜み、人は時として理由もなくそのうながしに心を狂わされるのである。(・・・)芭蕉は時間の流れに浮かぶ人生そのものの本質を「漂泊」として認識し、代々の名もなき民衆の生活の中にその漂泊の相を看取し、さてこの極度に拡大深化された視野の中核に、彼の敬慕してやまない幾人かの古人(能因・西行・宗祇など)を位置せしめたのである。」

*「私は、日本の思想史には、(・・・)三つの類型が確かに存在すると考えている。第一の類型は神・仏・キリストなど、ある絶対者に帰依して解脱・救済を求めようとする宗教的志向である。第二の類型は、天皇・主君あるいは何らかの主義・集団などのための没我的に献身しようとする政治的・社会的志向である。思うに人生は本来無目的・無方向であり、完結することのない、「虚仮」のようなものなのであろうが、人間は決してそのような不毛な定義に満足しない。何らかの超越的存在に身を投げ掛けて、貧しく矮小な自己を克服しようとする。たとえ「世間虚仮」なりとも、「唯仏是真」なりと信じ、たとえ現世の戦いに敗北しても「七生報国」を誓ったりするのである。

 しかし、そのような思想と実践を尊重しながらも、なお三木清の次のような言葉こそ、最も素直に自然に人生そのものに触れているもののように、私には思われる、

  處から何處へ、といふことは、人生の根本問題である。我々は何處から來たのであるか、そして何處へ行くのであるか。これがつねに人生の根本的な謎である。さうである限り、人生が旅の如く感じられることは我々の人生感情として變ることがないであらう。いつたい人生において、我々は何處へ行くのであるか。我々はそれを知らない。人生は未知のものへの漂泊である。(人生論ノート所収「旅について」)

 この言葉は奥の細道の冒頭の一行を親切にパラフレーズしてくれたものといえる。それは(・・・)日本の思想をを流れるいわば第三の類型ともいうべきものの、自然の現れと見なしたい。いかなる超越的存在にも身をゆだねようとせずに、貧しく小さい自己自身に執して、孤独にしかし強靱に歩みつづけるこの志向を、三木清は「未知のものへの漂泊」といったのである。」

*「私が第三の類型というのは、いかなる既成の思想や信仰にも規制されない生の実相を、冷酷に凝視しようとした志向である。それは人生に目的や結論を性急に求めるのでなく、与えられた一日一日を味わい尽くし、歩き通そうとする立場である。三木清は、「出發點が旅であるのではない、到着點が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。ただ目的地に着くことをのみ問題にして、途中を味ふことができない者は、旅の眞の面白さを知らぬものといはれるのである。」といった。人生の「途中を味ふ」点において、この第三類型は第一類型の宗教的志向、第二類系の政治的志向に対して、文学あるいは芸術の志向といいうるであろう。」

*「西行・芭蕉などをことさら例に引くまでもなく、この第三の類型が思考内容においても生活形態においても、第二の類型よりも第一の類型に近接していることは明らかである。しかしそれにもかかわらず宗教的志向と漂泊的志向との間には、なお越えがたい断絶がある。なぜならば、第一・第二の類型はともに明確な目的をもつがゆえに、そこから常に激しい行動的エネルギーが噴出した。漂泊の志向にはそういう高貴なものがないのである。(・・・)それは一見するところ、第一の類型————宗教的志向の零落した形にすぎないようにさえ、考えられがちである。

 しかしそこには他の二類型の及びがたい一つの性質がある。それは何か。もう一度三木清の言葉を引くと、————

  日常の生活において我々はつねに主として到達點を、結果をのみ問題にしてゐる、これが行動とか實踐とかいふものの本性である。しかるに旅は本質的に觀想的である。旅において我々はつねに見る人である。平生の實踐的生活から脱け出して純粹に觀想的になり得るといふことが旅の特色である。旅が人生に對して有する意義もそこから考へることができるであらう。

 三木清がここで旅について語っているところは、ただちに文学に移し考えることができるであろう。」

*「このように考えれば、語の本質的意味で「漂泊」とは精神の営みである。内面の動きである。」

**(近藤祐『漂泊者の身体』〜「第一章 漂泊者の身体、あるいは自由ということ/
   生命のうちにあること」より)

*「  ああ汝 寂寥の人
    悲しき落日の坂を登りて
    意志なく断崖を漂泊(さまよ)い行けど
    いずこに家郷はあらざるうべし。
    汝の家郷は有らざるべし!
    (萩原朔太郎「漂泊者の歌」部分)

 近代に入り日本文学は、翻訳される西洋文学と、それを咀嚼した詩人や小説家らが活躍する場となる。朔太郎は西行や芭蕉のように、実際に漂泊したわけではない。けれどこのように悲憤慷慨する故郷喪失者でり、漂泊者としての心情なり悔恨を抱えていたと言えよう。

 以上に例示した漂泊者に共通するのは、漂泊を生業とはせず、しかしそのような漂泊を希求する自らの「意志」ではないか。たしかに詳しく見れば彼らの漂泊には、何か止むにやまれぬ事情があったり、気がついたらすでに漂泊していたということもあるらしい。つまりはまったくの自由意志で漂泊者となったわけではない。いや、そもそも漂泊者に限らず、まったく自由な意志など人間には存在しない。ごくごく一般的に、漂泊など企てず定住する人間においても、それは半ば強制的な「定住」であって、自由な意志ばかりではなかろう。表向きは「定住」に身を置きながら、何らかの漂泊を夢想する者もいる。引用した朔太郎などそんな類例ではないか。何故ならばたいていの場合、漂泊など遂行されない。何度も言うように人間は定住することで社会的な地位や役割を得て、それを生きていく糧とする。つまりただの空想ではなく、衣・食・住を必要とする生理としての身体をもち、さらにはどうしようもなく共生的存在であるらしい人間は、漂泊によって生じる身体的困窮のみならず、自らが所属する集団や社会を見捨て、または見捨てられるという不安や恐怖を抱かざるをえない。漂泊しようとする自由な意志には、そうとうな負荷がかかるのではないか。ならば何か止むにやまれぬ事情があったり、気がついたらすでに漂泊していたという場合はどうか。そのような漂泊を促すのも自由な意志ではなく、たとえば社会にあることのどうしようもない居たたまれなさ、人間集団にあってごくごく普通に生きていくことができないという嫌悪感など、理性では割り切れない生理的・身体的な何かであろう。人間を漂泊に駆り立てるのは、時に自由な意志であるように見え、時にそれとはまったく相容れない生理や身体であるようにも見える。いや、おそらくはその両者の葛藤なりもつれ合いに、漂泊者が抱く夢や自由は曝されるのではないか。」

*「リクールは人間の意志的なものと非意志的なもの(必ずしも反意志的ではない)の相関・相克を、フッサール現象学を援用することで、現代思想史上のぼ抹殺された感のある自己としての人間の主体性の復権を試み、けれどその自己や主体性はどこまで自由で、どこまで不自由なのかを検証した。意志的なものと非意識的なものとは、例えば「精神と肉体」のような二元論ではなく、つまり双方が独自に存在し、お互いに干渉したり、協力したり反発するのではない。「非意志的なものに固有の可知性というものはない。意志的なものと非意志的なものとの関係だけが可知的」なのである。たとえば漂泊者の「漂泊しよう」という意志に対して、それまで不可知であった非意志的なものが記述可能な地平線上に浮かび出る。ひとりの人間において、漂泊しようという意志的なものが発動しなければ、それとせめぎ合うべき非意志的なものは、漂泊など端から望まない人間において専らそうであるように、永遠に眠りつづけるしかない。もっとも現実の漂泊者は、必ずしも明晰な意志的判断ではなく、自分でもよくわからない衝動に憑き動かされることもあろう。つまりは自由な意志とはまったく異質の、何かおそろしく非意志的なものが漂泊を促し、自己の主体性はその不可解な力に従うしかないということはなろうか。漂泊者は定住することの日常に飽き足らず、何か自由なものを求めて漂泊するように見えて、実は意志的なものが理解も支配もできない自らの深淵から、なにか魔的・病的な衝動が湧いてきて、いつのまにか漂泊へと誘われる。そんな事例もあるように思える。」

*「そのあたりのアポリアを、リクールはフッサール現象学の限界として指摘する。フッサールのいう超越論的還元においては、「意志作用がすでに変質し情念の彩りによって上塗りされているといった根本的事実」が想定されない。「情念」とは野心や嫉妬など、意志的な自由を変質させる志向性、錯乱的様態としての意志である。「情念」によって主体生の自由が惨たらしく変容してしまうことを、リクールは「過誤」とした。「過誤は基本的諸構造をくつがえしてしまうようなものではない[中略]それ自身としてあるがままの意志的なものと非意志的なものは、手つかずのまま敵に明け渡された占領国のように、〈無〉の威力に屈してしまう」。同時に「超越」、すなわち「道徳的にだけではなく存在論的にも徹底した意味での自律性としての自己」を仮構することも、べつの「過誤」であるとした。現実の漂泊者においても、「過誤」へと陥る水際をさまよい歩くように見えることはある。自由を求めての漂泊であるはずが、得体の知れない情念の沼にはまり込むことも、自己の自律性を超越的な何か、たとえば来世的な価値観によって武装してしまうこともあり得ない話ではない・そのような「過誤」や「超越」をリクールはカッコに入れて保留し、意志的なものと非意志的なものとの相関・相克を、あくまでも記述可能な弁証法として検証しようとする。もっともリクールによれば、「過誤」は人間にとって非本質的な症例ではなく、それどころか人間が自由であろうとする「身上」と表裏をなすという。「人間の中心に、絶対に非合理なものが存在すること、つまりもはや知性そのものにとって生気を与える神秘ではなく、神秘への接近と同様に可知性への接近さえもふさいでしまうような中心のいわば核のような不透明さがある」。仏教唯識のアーラヤ識をも思わせるこの「核のような不透明さ」に、「過誤」や「超越」は深く根を浸しているらしい。それゆえか『意志的なものと非意志的なもの』においては、保留したはずの「過誤」や「超越」がしばしば顔を出す。」

**(近藤祐『漂泊者の身体』〜「第一章 漂泊者の身体、あるいは自由ということ/
   序論(ポール・リクール『意志的なものと非意志的なものによる」より)

*「   入れものが無い両手で受ける(放哉)」

「この一句が開示するのは、普通ならば持っていてもいいものを持っていない清貧さではなく、リクールの言う「初めから失われているように感じられる」何かではないか。それは放哉の性格か無意識か、あるいは生命から予め剥ぎ取られているものか。いや、実際はそのすべてかもしれない。けれど、それら非意志的なものを蒙るのは、あくまでも放哉の意志的なものである。本章冒頭で引用したように、「非意志的なものに固有の可知性というものはない。意志的なものと非意志的なものとの関係だけが可知的」なのである。いや、同意することにおける非意志的なものは、意志的なものが発動しようとしまうと、そこにある圧倒的な深淵であろう。誰から何を・・・・・・を敢えて捨象し、「受ける」ことそのものを吟ずるこの一句において、放哉はその深淵を覗き込んでいるのではないか。何かが「初めから失われているように感じられる」自分を、まさに両手を入れものにして受け入れる。いや、放哉はそのような自分じしんに、同意しているように見える。」

**(國分功一郎『スピノザ エチカ(100分 de 名著)』〜「第3回 自由」より)

・「自由」とは何か

*「与えられている条件のもとで、その条件にしたがって、自分の力をうまく発揮できること。それこそがスピノザの考える自由の状態です。

 スピノザは『エチカ』の冒頭で自由を次のように定義しています。

   自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。(第一部定義七)

 この定義を読み解くポイントは二つあります。

 一つ目は、必然性に従うことが自由だと言っていることです。ふつう、必然と自由は対立します。必然なら自由ではないし、自由なら必然ではない。ところがスピノザはそれらが対立するとは考えません。むしろ自らの必然性によって存在したり、行為したりする時にこそ、その人は自由だと言うのです。」

・自由の反対は「強制」である

*「自由の定義を読み解く上での二つ目のポイントは、自由の反対の概念が「強制」であることです。」

「強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた身心の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態といえます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。」

・能動と受動

*「不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることである。ならば自由であるとは、自分が原因になることでしょう。では、自分が原因になるとはどういうことか。スピノザはこれを「能動actio」という言葉で説明しています。

 スピノザによれば、人は自らが原因となって何かをなす時、能動であると言われます。私が私の行為の原因である場合、私はその行為において能動であるわけです。」

「人は自由である時、また能動でもあることになります。」

「しかしここに問題が残ります。重大な問題です。

 私が自分の行為の原因になるとはどういうことでしょうか。『エチカ』によれば、すべては神という自然の内にあり、すべては神という実体の変状です。神の変状であるという意味では、私たちの存在や行為は神を原因としています。私たちは原因ではありません。

 他方、私たちは外部から刺激を受け続けながら存在しています。『エチカ』でも、いかなるものも、他のものから作用を受けなければ、存在することも作用することもできないとハッキリ書かれています(第一部定理二八)。」

「だとすると、私たちは常に受動でしかあり得ないのではないでしょうか。」

「スピノザは、私が行為の原因になっている時————つまり、私の外や私の裡で、私を原因にする何ごとかが起こる時————私は能動なのだと言いました。

 先の原因/結果の概念を用いるならば、この定義を次のように言い換えられることになります。渡した自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。」

*「ここから分かるのは、行為における表現は決して純粋ではないということです。ですから、純粋に私の力だけが表現されるような行為を私が作り出すことはできません。つまり私は完全に能動的になることはできません。いつもいくばくかは受動であるのです。なぜなら私たちは周囲から何らかの影響や刺戟を受け続けているからです。完全に能動であるのは、自らの外部を持たない神だけです。神は完全に能動です。」

・「意志」は自由ではない

*「スピノザの自由とは能動的になることであり、能動的であるとは行為において自らの力が表現されていることでした。したがって、スピノザの自由とは自発性のことではありません。自発的であるとは、何ものからも影響も命令も受けずに、自分が純粋な出発点となって何ごとかをなすことを言います。」

*「私たちが自発性を信じてしまうことには理由があるわけですが、しかし、実際にはそのようなものは存在しえません。この自発性は一般に「自由意志」と呼ばれています。」

「「意志の自由」あるいは「自由意志」の問題点は、先ほどの自発性の問題点と同じです。自由意志は純粋な出発点であり、何者からも影響も命令も受けていないものと考えられています。しかし、そのようなものは人間の心の中には存在しえません。人間は常に外部からの影響と刺激の中にあるからです。」

*「スピノザは「意志の自由」も「自由意志」も認めませんが、スピノザがいったい何を否定しているのかに注意しなければなりまえん。私たちは確かに自分たちの中に意志なるものの存在を感じます。スピノザはその事実を否定はしません。スピノザが言っているのは、確かに私たちはそのような意志を自分たちの中に感じ取るけれども、それは自由ではない。自発的ではないということです。」

・意志と意識の違い

*「意志の自由を否定したら人間がロボットのように思えてしまうとしたら、それは人間の行為をただ意志だけが決定していると思っているからです。意志こそが人間の行為の唯一の操縦者であるのだから、その操縦者がいなくなったら、人間には操縦者がいなくなると考えてしまっているのです。「意志の自由」や「自由意志」を否定することへの強い抵抗の根拠はここにあります。意志が一元的に行為を決定していると信じられているからこそ、その抵抗は強いものになるのです。

 行為は実際には実に多くの要因によって規定されています。」

*「一つの行為は実に多くの要因の影響下にあります。それらが協同した結果として行為が実現するわけです。つまり、行為は多元的に決定されているのであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。けれどもどうしても私たちは自分の行為を、自分の意志によって一元的に決定されたものと考えてしまいます。繰り返しになりますが、それは私たちの意識が結果だけを受け取るようにできているからです。」

*「意志と意識は全く別物です。そして、意志が自由な原因であることの否定は、意識の存在の否定とは何の関係もありません。意識の存在は否定されていません。意識は何らかの観念があれば、それに反省を加えることで生まれてきます。」

「スピノザは意志が自由な原因であるという思い込みを批判しました。しかし、それはあなたの意識の否定ではありません。あなたはロボットではありません。意識は万能ではないし、意志は自発的ではない、ただそれだけのことです。」

**(國分功一郎『スピノザ――読む人の肖像』
   〜「第六章 意識は何をなしうるか————『エチカ』第四部、第五部」
   〜「3 『エチカ』第五部————自由は語りうるか」より)

*「第一種認識としての意識、すなわち初期状態にある意識は身体の変状がもたらす結果を受け取っているだけの状態にある。自らの身体の内部に留まっていて、その外部にある一般法則についての認識に自らを届かせられていないという意味で、この意識は、極めて受動性が他会状態にある、いわば静止している。それに対し第三種認識としての意識は、自らの身体のもたらす変状の観念を、「自己・神および物」に関係づける。第三種認識としての意識は、身体の変状をただ受け取る静止した状態にあるのではなくれ、四つの対象(注:身体・精神・神・物)の間を経めぐるようにして運動している。ここに大きな違いがある。」

*「言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。自由は至福と同様、言葉で説明されるのではなくて、経験されるものである。あるいは、自由とは、第三種認識という意識のあり方がもたらす結果である。意識は我々のあり方に大いに関係している。意識は我々の行為の決定に関わっている。意識は何をなしうるか。意識は自由をもたらしうる。

 だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。倫理学という実践的なタイトルを与えられたこの書は本当に実践的な書である。スピノザは言葉を用いて、言葉が到達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである。」

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