あの世に行ったかもしれない友へ捧ぐ《2/4》
〚2519文字〛 ※読み終えるまでに5~6分程度掛かります。
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■Fの性格
先に挙げた通り、一見地味で気弱そうだが、Fには内に秘めた忍耐力と、努力を惜しまない素晴らしい性質がある。
せっかく書くなら、友達の良い面だけを書き残しておきたいという思うのが本音だ。
しかし僕も含めて人間というものは実に多面的な性格を持っている。
悪口を書くつもりはないが、このFにしても、ネガティブで愚痴が多く、自分を卑下し、劣等感とコンプの自虐ネタでお道化て見せたかと思えば、ニヒルに決め込んだ批評家となったり、山の如く高いプライドで、あらゆる面で強欲な高望みをしていた。
そのくせ酷く臆病で、酒が入ると急にひょうきんになって周囲を笑わせた。真面目なようでいて不真面目でもあった。大らかのようでいて嫉妬深くもあった。
そしてFには口癖のように毎度言うことがあった。
「俺は消費者側に回りたくない!」。
「消費者である自分が悔しい!」。
「消費するだけの人生なんか俺は嫌なんだ!」。
それこそ壊れたレコーダーのように言っていた。
これが何を意図しているかは、彼の秘めたプライドの高さを象徴する言葉であり、自分こそは芸術や創作をはじめとした、何らかのコンテンツ発信者になって然るべきという、豪快な野心を持っていたからだ。
このようにFがロールモデルとしての友達のように、誠実で良い人柄かと言えば正直違うが、僕は彼のある種人間臭い部分にシンパシーを感じていた。
自分とは似る部分はあまりなかったが、実際趣味の話していて楽しかったし、不思議なことにそれ以外にも何でも話せる関係になったことから、彼の性格の悪いところが出ても、まあた始まったかくらいにしか思わなかった。
■資格試験講座
僕とFの友情がロールモデルらしく、互いを高められる関係になったのは大学3年の頃だった。
大学ではある資格試験の取得を在学中にすることが慣例となっていて、僕とFは5月から放課後の資格試験講座に参加した。
試験に向けて総勢200名の受講生が講義を受け、毎日模擬問題を解いた。
僕とFはその中で切磋琢磨し、図書館で一緒に勉強したり、講義の後でサイゼリヤで復習しながら終電まで駄弁ったりした。
面白おかしくふざけながら過ごしては、Fとの話は尽きなかった。夏休みの勉強合宿での思い出など、気付けば、他のどの大学の友達よりも、仲の良い友達になっていた気がする。
しかし途中、Fは試験2週間前に不運にも不良に殴られ入院するという災難に見舞われたが、持ち前のタフさで乗り切っていた。
自分で「俺はダメな奴だから」と自虐する癖に全然そんなことのない、すごい奴だと感心した。
そして、一緒に合格を喜び合った。
■借金
Fは他のどの同年代の友達よりも苦難を背負っていた。勿論それを可哀想だとか言うつもりはない。彼にはそれをちゃんと乗り越えられる力があったからだ。
Fの家庭環境は彼にとって厳しいもので、特に金銭面での苦労が絶えなかった。学費も奨学金で捻出していた。
問題はその奨学金をFの親父が使い込み、期限までに納入が出来ず、突如除籍処分の危機に直面することになった。
Fはバイトを色々やっていたが、どうにか搔き集めても足りず、僕は生涯で一度だけ大金を貸した。
金の切れ目は縁の切れ目。世間ではそんなことを言う人はいる。
金の貸し借りをするとそこに上下関係が出来る、返済してくれなかったらどうするなど、色々周りにも言われたが、Fは就職後、毎月数万ずつ返済に応じ、さらにお礼と言ってかなり色を付けてくれた。Fは奨学金の返済もあったから、それは気持ちだけ受け取って返した。
彼はああ見えて、とても誠実で信頼できる人間だった。
■自分の病気
話は遡るが、2007年の大学3年冬、今度は僕が病気になった。何度も何度も色々な所で書いている緑内障の発作の第1回目だ。
3年の冬と言えば就活の時期だ。僕は就活の大切な時期に、それを断念し、放置すれば両目が失明すると言われ、大学病院へ通わなければならなくなった。薬も効かず、当時はどうなるか分からず、手術となれば、もう普通の生活は送ることが無理で、就活はおろか、大学生活どころではなかった。
そんな時、色んな友達に打ち明けたけれど、やはり親身になって話を聞いてくれたのは病気経験のあるFだった。
仏頂面で一見岩石のようなのに随分熱い言葉をぶつけてくれた。
■卒業旅行
翌年2008年には緑内障の症状も落ち着き、進路は未定となってしまったが、何とか自分も4年で卒業することが出来た。
色んな友達のグループが卒業旅行を計画する中、進路未定の引け目から避けていた僕に、Fは「二人でどこかへ行こう」と声を掛けてくれた。
石川県の能登半島の和倉温泉と金沢という、格安ツアーの、やや渋めな行き先だったが、やはりそれも思い出深いものとなった。
■卒業後の進路
Fは小売業大手某スーパーへ就職し、僕は緑内障発作がいつまた起こるか分からず、予後観察という形でしばらく無職の生活を送っていた。
ニートでいると腐るというけど、これは本当だ。段々ネガティブになり、自分の情けなさを嘆いて、夜な夜な良からぬことを考えていた。
卒業後、Fとは週に1度2度電話で話し、1ヶ月に1度は会っていた。
Fの就職先は過重労働を強いる職場らしく、かなり大変と聞いて、そこで何と返して良いか迷った自分がダメな奴だと心の中自虐を繰り返してばかりいた。
よく考えてみると、最初は似ている所はないと思っていたが、僕とFは、部分部分で似ている所は多かったのかもしれない。もっとも僕に彼のようなタフさはないのが残念だけれど。
Fの忍耐と底力から学ぶところは非常に多かったと思う。だから僕もこのままではいられなかった。Fからまた一緒に旅行へ行こうと誘われ、その費用をどうしても自分で出したくて簡単なアルバイトから始めた。
その後、緑内障に付随して発症した様々な病気と体調不良で大変だったが、ニートやフリーターを交互にやりながら、それでも某派遣会社を通じて倉庫作業員、事務員やテレアポ、管理会社の契約社員、
大学時代のバイト先であった飲食店の雇われ店長などとして落ち着くようになった。
ここまで読んで下さりありがとうございます。次回《3/4》へ続きます。