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私にとっての20世紀―付 最後のメッセージ (加藤 周一)

 久しぶりに読んだ加藤周一氏の本です。

 2部構成で、第1部は2000年に出版された単行本のそのもの。「いま、ここにある危機」「戦前・戦後その連続と断絶」「社会主義冷戦のかなたへ」「言葉・ナショナリズム」の4編が採録されています。後半の第2部は「加藤周一、最後のメッセージ」として「老人と学生の未来―戦争か平和か」という講演と「加藤周一・一九六八年を語る―「言葉と戦車」ふたたび」というインタビューの書き起こしです。

 加藤氏にとって戦争、第二次世界大戦はとても大きなものでした。
 加藤氏に絶対的な影響を与えた「戦争」を経ても、日本人のものの考え方・感じ方で変らないものがありました。そのひとつが「大勢順応主義」です。

(p55より引用) 正しさの概念が数から独立している、最後の根拠が個人の良心のなかにある、という考え方は浸透しなかった。だから少数意見の尊重ということがあまり発展しなかった。

 戦争は「特殊な状況」です。その状況下で、数々の悪魔的な行為が行われました。もちろんそういった行為は正当化されるものではありません。が、他方、その行為者の本性が悪魔的だとはいえないと加藤氏は語ります。

(p61より引用) 人間の本性とか本質のほうに関心を持っていくよりは、人間を悪魔にしたり善良にしたりする社会とか歴史のほうに関心を向けるべきだとするこの考えは大いに経験に基づいた考え方です。それは、戦争中だけでなく、戦争の済んだあとの経験でもあります。

 加藤氏は、自らを「知識人」といって憚りません。また、それゆえに「知識人」たることの責任も強く意識し、その責任に対しては厳しい態度で臨みます。
 知識人たる「専門家」は、戦争に対してどのような態度をとったのか。

(p81より引用) 政治学、あるいは歴史学の場合には、学問が進めば進むほど歴史的な現象が現在起こっていることの必然性を理解することになるので、進めば進むほど批判力が低下する。そう考えると、なぜヴェトナム反戦運動が数学者と英文学者から出て政治学者から出なかったかが説明できる。

 これはまさに正鵠を得た指摘ですね。
 そして、加藤氏の怒りは、こう続きます。「戦争反対」への強烈な意思です。

(p81より引用) 戦争に反対する動機は、客観的な理解過程ではなくて、一種の倫理的正義感です。つまり「子どもを殺すのは悪い」ということがある。それで、ためらうことはない。そういう問題の時にこそ、その目的を達成するための科学的知識を、客観的知識を利用すべきであって、科学的知識のために倫理的判断を犠牲にすべきではない。
 だから、私は、戦争反対のほうが先にある。「初めに戦争反対ありき」です。

 小林秀雄氏は、昭和の「知識人」の代表者です。その小林氏に対しても、加藤氏の批判の矛先が向けられます。

(p225より引用) 小林さんのみならず日本の知識人の多くは、日本文化を再評価していくときに、文化ナショナリズムに惹かれていきました。そして体制批判能力を放棄していくという傾向は、戦前はもちろん戦後もずっと続いてきた。・・・日中戦争が中国侵略戦争であるかないかということに彼は興味がない。興味があるのは、たとえば自分を捨てて国に尽すとか、その勇気とか決断力です。決断してどこに行くか、決断がいったい何を社会に、歴史に及ぼすかということにはあまり関心がない。決断そのものを評価する。それは一種の美学だと思うけれど、小林さんの限界です。同時に、日本の多くの知識人の一面を象徴していると思うのです。・・・
 小林秀雄さんの場合は、一時代の指導的な知識人の一人として、本人の美学的体験の強さみたいなものだけを中心にして発言していたのでは困るのです。

 戦争に対峙しない知識人への加藤氏の不満であり非難です。こういった知識人の姿勢が、「戦争へと突入する状況」を作り出した一因だと考えているのです。
 加藤氏にとっての戦争は、自らの人生を通底する巨大な現実でした。
 「実生活と離れた思想」には意味を認めないとの信念です。



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