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これからの「正義」の話をしよう ― いまを生き延びるための哲学 (マイケル・サンデル)
(本稿は、2010年に投稿したものの再録です)
「正義」へのアプローチ
ハーバード大学の超人気講義とのこと。NHK教育テレビでの放送も見られなかったので、楽しみにして手にした本です。
「正義」という根源的なテーマ。マイケル・サンデル教授は、具体的な事例における意見の対立を示しながら、その意見の対立の元にある「思想・価値観」等を論じていきます。
まずは、議論のはじめにこういったくだりがありました。
(p17より引用) 正義をめぐる古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発すると言えるかもしれない。・・・だが、こうした対比は誤解を招くおそれがあることは、最初に知っておいていいだろう。
というのも、現代政治を動かしている正義-哲学者ではなく一般市民にとっての正義-に目を向ければ、状況はもっと複雑だからだ。・・・正義には選択の自由はもちろん美徳も含まれるという信念は根深いものだ。正義について考えるなら、われわれは否が応でも最善の生き方について考えざるをえないのである。
本書が「正義」を狭義の「哲学」の中で論じようとしていないことの表明です。
さて、本論。まずは、「分配の際の公平さ」という切り口から入っていきます。
(p29より引用) ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの-収入や財産、義務や権利・・・-がどう分配されるかを問うことである。・・・
われわれは・・・価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。
われわれの議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが何を意味するのかについて見解の相違が表われている。また別の議論には、これらの理念同士が衝突する場合にどうすべきかについて意見の対立が含まれている。
ここで示された「正義に関する三つのアプローチ」が、本書におけるサンデル教授の論考の軸になります。
最初の「幸福の最大化」で採り上げられるのがベンサムを代表とする「功利主義」の考え方です。
(p47より引用) 救命ボートの事例をめぐる・・・二つの考え方から、正義への二つの対立するアプローチが明らかになる。第一のアプローチは、行動の道徳性は行動がもたらす結果だけに依存しているとするものだ。つまり正しい行ないとは、総合的に考えて、最善の状況を生み出すすべてのことだというわけである。第二のアプローチは、道徳的に言えば、結果だけを考えれば良いわけではないとするものだ。つまり、いくつかの義務や権利は、社会的結果とは無関係に尊重されるべきだというのである。
後者の立場に立つならば、「どんな義務や権利が、結果に関わらず尊重されるべきか」という点が問題になります。しかし、功利主義は、こういう道徳的義務や人権を認めません。
(p48より引用) 道徳の至高の原理は幸福、すなわち苦痛に対する快楽の割合を最大化することだというものだ。ベンサムによれば、正しい行ないとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。・・・あらゆる道徳的議論は、暗黙のうちに幸福の最大化という考え方に依存せざるをえない。人びとは、ある種の絶対的で無条件な義務や権利を信じていると言うだろう。だが、こうした義務や権利を尊重することが、少なくとも長期的には幸福を最大化すると信じていないかぎり、人びとがそうした義務や権利を擁護する根拠はないのだ。
徹底した「最大幸福原理」です。
(ただ、救命ボートのケースでは、結果、「良心の呵責に苛まれながらも生き残ることが幸福だ」という価値観が問われることになります)
二つ目の「自由」についての議論は別に触れるとして、三つ目の「美徳」に関する議論はアリストテレスの思想が登場します。
(p242より引用) アリストテレスにとって、正義とは人びとに自分に値するものを与えること、一人ひとりにふさわしいものを与えることを意味する。
この「ふさわしいもの」とはなにか、その判断のためには「目的論的思考」が重要だといいます。
(p244より引用) 物の正しい分配方法を決めるには、分配されるもののテロスすなわち目的を調べなくてはいけない
この考え方は、「目的」に合致した判断をするというものですから、現在の私たちにとっても理解しやすいものだと思います。
(p248より引用) 正義と権利をめぐる議論は、社会制度の目的をめぐる議論でもあり、また、その制度が称え、報いを与えるべき美徳をめぐって対立するさまざまな概念の反映でもあることが多い。
サンデル教授は、本書に記された考察を通して、この「三つ目の考え方」、すなわち「正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる」との見解が自らの立場であると明らかにしています。
(p335より引用) 公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。
最後に、本書の中で紹介されたロバート.F.ケネディの演説の一節を書きとめておきます。
(p337より引用) 要するに、GNPが評価するものは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてだ。そして、GNPはアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれない。
そういえば、今年(注:2010年当時)、日本はGDPで世界2位から3位になるのでした。
カントの正義
サンデル教授によると、カントの思想は「正義を自由と結びつける」アプローチだと言います。
それはカントの著作「道徳形而上学言論」で説かれているとのことですが、このあたりの解説は私にはさすがに難解でした。
ということで、自分で理解できていないという前提で、いくつかのフレーズを覚えとして記していきます。
(p143より引用) カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。
この「自律」の概念はひとつのポイントです。
(p170より引用) 逆説的だが、カントの自律の概念は、われわれが自分自身を扱う方法に一定の制約を課す。自律とは、自分が定めた法則に従うことだ・・・自分を含めたあらゆる人格を、単なる手段としてではなく、それ自体を究極目的として尊重することを求める。カントにとって、自律的な行動とは自分自身を尊重し、物扱いしないことだ。自分の肉体だからと言って、好き勝手にはできないのである。
従ってカントは、自殺や売春を認めません。カントは、すべての人に平等に備わっている理性的能力への尊敬を説きます。他者を尊重することは人間の義務だとの考えです。
(p160より引用) カントにとっては、自尊心も他者を尊重する気持ちもまったく同じ原理から生じる。
このあたりの考え方は、夏目漱石の「私の個人主義」のなかにも同種のものが見受けられました。
さて、こういったカントの道徳哲学の思想のなかでもうひとつ私の興味を惹いたのが「嘘」に関するカントの考え方です。
(p172より引用) カントは嘘をつくという行為に非常に厳しい。『道徳形而上学言論』では、嘘は不道徳な行為の最たるものとしてやり玉に挙げられている。・・・「真実を述べることは、相手が誰であっても適用される正式の義務だ。たとえそれが本人や他者に対して、著しく不利な状況をもたらそうとも」
・・・嘘はどんなものであっても、「正しいことの根源を傷つける。・・・したがってつねに真実を語ること(正直であること)は、いかなる都合も認めず、つねに例外なく適用される神聖な理性の法則なのだ」。
カントは「真実を告げる」という義務を重視します。したがって、「嘘と誤解を招く真実とのあいだには道徳的な違いがある」というのがカントの考えです。
(p178より引用) カントの道徳論では、重要なのは意図、すなわち動機なのである。・・・念入りにこしらえた言い逃れは、真実を告げるという義務に敬意を払っている。だが、真っ赤な嘘は違う。単純な嘘をつけば用が足りるのに、わざわざ誤解は招くが厳密には嘘ではない表現を使う人は、遠回しであっても、道徳法則に敬意を示しているのだ。
「真実ではあっても誤解を招く言い様」は、結構身近でもお目にかかります。私自身も正直なところ心当たりがあります。詭弁的な言い方は、越えてはならない最後の一線への正直さの現われでもあるのでしょう。
最後に、「功利主義」に対するカントの姿勢をメモしておきます。
(p180より引用) カントは功利主義を個人の道徳のよりどころとしてはもちろん、法則のよりどころとしても認めていない。・・・効用は正義と権利の基盤とはなりえない。・・・権利の根拠を効用に求めると、社会は特定の幸福観を、ほかの幸福観よりも支持したり、後押ししたりすることになるからだ。・・・「何人も自分の考える幸福観に従って幸せになることを私に強いることはできない。なぜなら他者の自由を侵害しないかぎり、人間はみな自分に合った幸福を探すことができるからだ。
カントは、人々がそれぞれに持つ多様な価値観を重視します。特定の価値観の押付けには断固として反対するのです。