対談集-六人の橋本治 (橋本 治)
いつも利用している図書館の新着本リストで目につきました。
橋本治さんの著作は、「「わからない」という方法」「思いつきで世界は進む」等いままでも何冊か読んでいて、そこで開陳されているとても素直な “正論” を楽しんでいました。
本書は、橋本さんが様々なジャンルの6人の方々と語り合った対談集とのこと。興味深いやりとりが満載でしたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、「日本美術史を読み直す」とタイトルされた批評家浅田彰さんとの対談の中のフレーズ。
和漢混淆文を取り上げ、漢意とやまとごころという概念の成り立ちとその後の文化面での派生の様子を “融通無碍に展開してきた日本文化史” と語る浅田さんの議論を受けて、橋本さんはこうコメントしています。
そして、同じ対談からもう一ヵ所、浅田さんが近現代の日本美術の “幼児性” をしているところです。
以前、岡本太郎さんの著作で「大屋根」をぶち抜く「太陽の塔」のエピソードを読みましたが、立ち位置が異なるとこれほどまでに評価が一変してしまうのですね。
大きな二つ目は、「紫式部という小説家」という章での国文学者三田村雅子さんとの対談でのやりとりから。
なるほど、面白い指摘ですね。
恥ずかしながらこういったことも初めて知りましたし、知っていれば、ド素人の私の平安文学の読み方もほんの少し深まっていたかもしれません。
三つ目は、コラムニスト天野祐吉さんとの対談からです。「2009年の時評」と銘打たれた章ですが、このころに既に “メディアの劣化” が語られています。
橋本さんのコメントです。
ともかく、“自分の頭で考えなくなった” ということですし、 “考える方法” を身に着ける機会が極めて少なくなってしまった、あるいは、そもそも “考える方法” を身に着けようという動機を持つ人が少なくなってしまったのが今でしょう。
自らの判断を外部からの情報に無批判に委ねる姿勢の蔓延です。
さて、最後は、「「リア家」の一時代」という章での劇作家宮沢章夫さんとの対談でのやりとりから。橋本さんが書く “小説の手法” を開陳しているくだりです。
とはいえ、最終的には物語をラストに向けて収斂させていくのでしょうから、そこに導く作者の意思が必須のように思います。橋本流は、最後まで登場人物の主観で進め切るのでしょうか?
本書に収録された7つの対話、それぞれのジャンルで橋本さんの作品を読み込んでいないと対話者間で交わされるやりとりを理解することはできません。
その点では、私の場合、本書をほとんど楽しむことができなかったようです。残念ですが、ベースとなる堆積物がなかったわけですから如何とも仕方ありませんね。