
諸子百家―儒家・墨家・道家・法家・兵家 (湯浅 邦弘)
儒家
古代中国、春秋戦国時代(前770~前221年)に活躍した多くの思想家たちを諸子百家といいます。
この諸子百家を「漢書」の芸文志では九流十家に分類しています。九流とは、(1)儒家、(2)道家、(3)陰陽家、(4)法家、(5)名家、(6)墨家、(7)縦横家、(8)雑家、(9)農家の9つです。
本書では、九流の中から、儒家(孔子・孟子)、墨家(墨子)、道家(老子・荘子)、法家(韓非子)を選び、さらに兵家(孫子)を加えた思想の概要を解説しています。特に、1990年代に発見された古代文献からの新たな事実も踏まえている点が特徴的です。
それぞれの思想家は、自らの理念を現実政治に具現化すべく諸侯に政策具申をし続けました。
(p77より引用) 孔子自身は、「従政」への強い意欲を持ちながら、一国の命運を左右するような「従政」者の地位につくことはついになかった。しかし、孔子集団にとって、彼らの理想を実現するもっとも重要な方法の一つは、彼ら自身が「従政」者となり、国政に参画していくことであった。
儒教の祖 孔子の思想は、人間を多角的に捉えた包括的思想で「中庸」を旨としたものでした。
(p89より引用) 礼が外側から人間を規制し、その形式によって人の美を追求するものであるのに対し、孝は、人間のもっとも素朴な心情を、あらゆる道徳の基礎として重視するものである。・・・
つまり、孔子の思想には、外なる礼と内なる孝という二つのまなざしがある。一方に偏らない総合性が、孔子の思想に奥行きを与えているといえる。
孔子には、この「二つまなざし」のバランスをとる懐の深さがありました。
しかし、後年、この孔子の思想を継承していく過程で、その総体は変形していきました。弟子たちは思想の総体を引き継ぐことができず、包括的思想のある側面を強調する形で伝えていったのです。
(p93より引用) 孔子の思想は、弟子門人たちの興味関心に沿って、分割伝承されていった。
子夏、子游、荀子のグループは「礼」を尊重し「外面性」を重視しました。
他方、主流となったグループは、「孝」を強調した曾子、孔子の孫の子思から孟子につながる系統でした。
(p91より引用) この系統の弟子門人たちは、孔子の思想のうちの、特に内面性を重視し、それを「孝」や「中庸」や「性善」といったキーワードで展開していったのである。
この系統の代表が「性善説」で有名な孟子です。
(p111より引用) 孟子は・・・まずは、人の本性が善であるという「性善説」を主張する。
・・・人間には本来的に、「惻隠の心」、「羞悪の心」、「辞譲の心」、「是非の心」の四つ(四端)が備わっていて、これを発展させていくと、それぞれ「仁」「義」「礼」「智」の道に到達するというのである。
この対抗が、「礼」を重んじ「性悪説」を唱えた荀子です。
後に、「性悪」を正すための行動規範としての「礼」が「法」と同義となり、荀子の弟子に「法家」の韓非子や李斯が連なったのでした。
道家
老荘思想関係では、ちょっと前に「タオ・マネジメント―老荘思想的経営論」という本を読みましたが、本書はストレートな思想の概説です。
道家の思想は、無為自然、無欲などの虚無を道の基としました。
ただ、この基本的コンセプトである「道」に関して、老子と荘子での考え方の相違が見られます。
(p179より引用) 天地万物が生ずる以前、そこには宇宙の母たる何ものかが存在していた。・・・
そして、老子は、この道の姿を理想として、処世のあり方を説く。・・・俗世の中におけるさまざまな智慧を説くのである。
一方、荘子は、相対的な価値観に彩られたこの世のすべてを受け入れるという超俗的な態度をとる。自らは価値判断を下さず、世界の実相をそのまま認めていくというのである。だから、荘子にとって、「道」とは、この世のすべてである。
老子と荘子では「道」の意味づけが異なるのです。ただ、いずれにしても、そこには儒家的な世俗の価値基準は存在しません。「世俗的な価値観」は否定されています。
世俗的な価値観を否定するにしても、老子と荘子では否定・批判する際の姿勢は異なっていました。
(p175より引用) 『老子』も、世俗の人間の価値観が世界の実相から外れていると批判した。しかし、批判する自分自身には批判の矢は向けられなかった。一方『荘子』は、自分自身を含む人間全体に批判の網をかぶせてしまったのである。これを脱出する手段は、言葉によらない超越的な方法、つまり「明」という悟りの境地である。のちに中国に伝来した仏教、とりわけ禅宗が、『荘子』の思想を助けとして受容されたのは、こうした点にも一因がある。『荘子』における「明」と禅宗における無言の悟り、この両者は強い共通性を持つ。
荘子においては、「胡蝶の夢」で語られているように、「判断の相対化」が説かれるのです。
さて、漢の武帝によって儒教が国教化された後、諸子の思想は次第に廃れてしまいますが、道家思想だけは、ある意味儒教のアンチテーゼとして後年に渡り生き残りました。
(p182より引用) 儒家の思想は、きわめて人間的である。どんなに歴史をさかのぼっても、せいぜい、古代聖王の堯・舜までであり、しかもそれら古代聖王によって築かれた文明を高く評価する。
しかし、道家の思想は、人間の誕生や活動が、むしろ宇宙の根源的状態を乱してしまったのではないか、という文明批判的側面を持っている。その思想は、他の諸子百家に比べてはるかに巨視的であるといえよう。
思想の坩堝
諸子百家に数えられる儒家・道家以外の思想家についても、興味を覚えた点を記しておきます。
まずは、墨家です。
戦国の乱世を憂えた墨子は、「兼愛」「非攻」を説きました。
(p141より引用) 『墨子』において武力行使が肯定されるのは「誅」と「救」の場合のみ。この軍事行動だけが「義」として認められるのである。侵略戦争は他者の利益を損ねて自分の利益を図る行為であり、兼愛の理想をもっとも過激に破壊するのである。
墨家は、自己の思想の根本である「兼愛」「非攻」といった「義」に忠実でした。しかし、その墨家の「義」は世の中に受け入れられず、にも関わらずその世情に妥協しないという姿勢が、後年、墨家を絶やしたのです。
ただ、最近の中国では、墨家の守城技術が科学技術の先駆けとされ、墨子も「科聖」として2000年の時を隔てて再度脚光を浴びているようです。
次に、法家。
法家の思想は、現実的な統治原理として秦の始皇帝に採用されました。
(p191より引用) 法による統治は、賞罰を背景として天下中に適用でき、しかも即効性がある。わざわざ賢人が現地に赴く必要はない。凡庸な君主でも、官僚体制という組織にその運営を任せ、自らはその組織の頂点に位置しているだけでよい。
法治と官僚体制は現代にも通ずる統治システムです。しかし、法治偏重の体制は、統治される側の「人心」の軽視を招き、悲劇的な終末か制度の形骸化に至ることとなります。
(p208より引用) この歴史の教訓をもとに、次の漢代では、儒家が新たな統治理論を提唱した。法家が唱え、始皇帝が実践した「法治」を、皇帝の「人徳」によってコントロールしようという考え方であり、これが、漢帝国によって採用された。春秋戦国時代に見られた「徳治」と「法治」の対立が、結果的に折衷される形となったのである。法治は高く評価されたが、それはあくまで徳治を支える技術としてであった。
最後は、兵家です。
九流には含まれていませんが、中国古代思想の中では、現在最も広く知られている思想かもしれません。私も「孫子」は、以前、金谷治氏によるものと浅野裕一氏によるものを読んだことがあります。
「百戦百勝は善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」との言に明確に著されているように、孫子の兵法は「戦わずして勝つ」ことを最善と考えます。
その成否を握るのが「用間篇」で説かれている「情報」です。
(p246より引用) 『孫子』は、戦争が国家経済に深刻な打撃を与えると考えた。だからこそ、戦う前に敵情を充分に把握し、戦いの成否を的確に予知している必要があるという。
・・・『孫子』は・・・神秘と迷信をいっさい避ける。「先知」は、人間の知性によってのみ可能となる。具体的には、間諜による情報の収集活動と、それに基づく冷静な情報分析である。この合理性が、『孫子』を貫く最大の特色となっている。
近年発見された多くの古代資料は、従来の定説の不確定であったところを、史実をもって埋めていきました。また、同時に、単線的に考えられていた思想発展の流れにも多様なバリエーションがあったことも明らかにしていきました。
2000年から2500年も前に、これほどまでに多種多彩な思想の華が咲いていたという歴史は素晴らしいですね。