【歴史の話】【#読書感想文】昔作った駄作ゲームの元ネタを、20数年ぶりに見つけた
はじめに
筆者が20代のころ、当時のコンピュータゲーム制作補助ツール(アスキーの「ツクール」シリーズ)でいくつかPCゲームを作っていました。
閑つぶし感覚の駄作ばかりで、もちろん公開したり売り物にしたりしたことはありません。
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一つは、「アドベンチャーツクール」。コマンド選択形式のゲームが作れるものです。
それで作ったゲームは、当時の大学の研究室の内輪ネタをてんこ盛りにしたもの。
ある年の面白い出来事が順番にやって来るのに対して、うまくコマンドを選ぶとフラグが立ったり所持金が増えたりする。
するとその後のイベントが有利になって、最終的にはバッドエンドを回避してグッドエンドを迎えるというものです。
各シーンのグラフィックはペイントツールを使ってフリーハンドで描いたチープなもので、芸人野田クリスタルさんが作る「野田ゲー」をイメージして頂くと分かりやすいでしょう。
RPG
もう一つは、今でも続編がリリースされている「RPGツクール」で、地面を真上から見下ろすタイプ(=2Dスクロール)のロールプレイングゲームが作れるものです。
それで作ろうとしたのは、初代ドラクエのオマージュ作品でした。とくに、「重要な条件を満たしたらラスボスの島に渡れる」というアイデアを真似したかったのです。
筆者は、実在のユーラシア大陸を舞台にして、最後は日本に渡ってゴールになるというストーリーを想定。
そして、実際に長い旅をして日本に来た歴史上の人物を主人公にしたいと考えました。
テーマ探し
しかし、これが意外と難しい。
例えばフランシスコ・ザビエルだと、大陸での旅がずっと船で移動だからダメ。(大航海時代ものとして、それはそれで面白そうではあるが。)
鑑真や徐福もやはり、中国大陸から東シナ海を船で渡って来るだけ。(当時はそれでもすごい冒険だったのだが。)
マルコ・ポーロは、黄金の島ジパングの噂を聞いただけで、日本には来ていない。
そんなときに見つけたのが、とんでもないことが書いてあった本でした。それも小説ではなく、ちゃんとした歴史家の研究内容として。
その本の主人公は、古代史を代表する英雄、聖徳太子。
その太子が「もともとは中央アジアの遊牧民族の人であり、ユーラシア大陸を横断して日本にやってきた」という話です。
筆者はそれをモチーフにして、「勇者ウマヤドがユーラシア大陸の最東端まで移動して、海を渡って日本の都イカルガに着いたらゴール」というRPGを作ったのでした。
元ネタ探し
しかし、長らくその元ネタとなった本が何で、誰が書いていたもかも分からなくなってしまっていました。
覚えていたのは、その仮説の数多い根拠の中の二つだけです。
キリストの生誕伝説「馬小屋で生まれた」と、太子(=厩戸皇子)の伝説との類似性
太子の「七人の話を理解した」という伝説は「七人と同時に会話した」ではなくて、「七か国語で会話できた」という意味である
それから20数年後の令和四年秋、筆者はついにその手がかりを見つけました!?
小林惠子著 「古代倭王の正体」 祥伝社新書
本書は古代東アジアの通史のため、聖徳太子の話は本書のほんの一部でしかありません。
そして実際に最後まで読んでみても、残念ながら筆者が記憶していたような根拠については書かれていません。
わずかに、「七」という数字がペルシャ地方で「多い」ことを表すことが書いてあり、「七人との会話」の伝説の根拠になりそうだと示唆している程度です。
それでも、遊牧民族の王族が倭国に来て聖徳太子になったことは、筆者の記憶と一致します。
「突厥の王族達頭」という名前までは覚えてませんでしたが。
著者小林惠子氏の過去の著作の中に「聖徳太子の正体」という作品があり、初版が1993年のようなので、筆者が昔読んだのはこれだったのだろうと考えています。
本書の感想
改めて、本書「古代倭王の正体」を読んだ感想です。いろいろな意味で、ものすごくスケールが大きいなと感じました。
まず、小林氏が信じているものと全く信じていないものの割り切りがすごい。
「記紀(古事記・日本書紀)」の一つ一つの事件の記述はかなり尊重しているが、「記紀」の主題ともいえる「万世一系」は、全く信じていません。
母系の出身氏族などの背景の記述は考察するが、男系の兄弟や父子の血縁関係などは、まるで無視です。
そして、日本以外の国の史書の年代は、かなり尊重しています。
確かに「記紀」の年代はあてにならないのが通説ですが、他国の史書、それも一つだけでなく複数を見比べて裏を取ろうとしていることがすごい。
その結果、「中央アジアのどこかの遊牧民族の首領」と「朝鮮半島のどれかの国の王」とか「倭国の大王の誰か」が同一人物だったなどの仮定が、多数生まれています。
例えば、どれかの国の史書に数年の空白があることが根拠になって、「倭国では死んだことにして新羅の王になった」「ペルシャ地方に遠征していた」「百済の王が倭国の大王を兼ねており、百済に倭国軍を呼び寄せた」など。
日本海の存在も数千キロの距離も(遠征費も?)気にしない大胆な説が次々と飛び出してきます。
まさに、「海を越えてきた覇者たちの興亡」という副題の通りです。
一つ言えるのは、他の研究者があえて触れない疑問点、例えば「好戦的な王の足跡が突然史書から消える」とか「死んだとは書かずに別の表現をしている」「一代前の王の治世が長すぎる」などについて、徹底して考察する姿勢はすごい。
そしてそれが紀元前から7世紀までを通してまとめられていて、単純にその研究量(と熱意)に敬意を表したいと思いました。
まとめ
本書をどれくらい信じてよいのかは分かりませんが、古代日本の王家が複数あって、大王の座を奪い合っていたという説は、近年珍しくなくなっています。
少なくとも、10崇神、15応神、26継体、29欽明、40天武のうちのいくつかで王朝が入れ替わったことが証明されるのは時間の問題のように思えます。
加えて、例えば、「蘇我氏は本当は大王だったにも関わらず、"大王ではなくて、大王の座を狙う野心家である"と記録されて、事実が隠蔽された」という学説も最近よく目にします。
王家が複数あったことを隠したい人たちが、日本書紀の編纂当時からいたということなのでしょうね。
また、ヤマト政権の勢力圏外にあった関東・東北地方が、決して後進地方ではなかったことも明らかになりつつあります。
もしかしたら、「青森のキリストの墓に眠っていた人物は聖徳太子だった!」なんていう仰天ニュースが流れる日が、いつか来るかもしれません。
貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございました。有意義な時間と感じて頂けたら嬉しいです。また別の記事を用意してお待ちしたいと思います。