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【短編小説】仮初の安全と声色の呪縛

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仮初の安全と声色の呪縛_20(最終話)

仮初の安全と声色の呪縛_20(最終話)

(前話はこちらから_20/20)



 年明け、祖母は天国に旅立ってしまった。最後の方は、眠る時間も長くなり、食事は全く摂れない状態だった。おそらく苦しみなどはなく、本当に静かに眠るように逝ってしまった。家族や親族はもちろん、自分の名前すらも忘れ、全ての記憶を病気に奪われ、空っぽになってしまった。僕個人の考えではあるが、祖母の思慮深さと知識がなければ、年明けまで持つこともなかったと思う。最後ま

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仮初の安全と声色の呪縛_19

仮初の安全と声色の呪縛_19

(前話はこちらから_19/20)



「じゃあ、行きましょう」
 太田はいたって普通に振る舞っているが、僕はけっこう気まずかった。病院で感情が昂っていたのは間違いないのだが、勢いで太田に連絡して祖母の家に一緒に言ってほしいなんて軽々しく言ってしまったのだ。しかも以前、若い祖母から『人の家でデートするのってどんな気分なの』ということも言われていた。もちろん、今日もデートではないことは自分の心の中

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仮初の安全と声色の呪縛_18

仮初の安全と声色の呪縛_18

(前話はこちらから_18/20)



 珍しく横浜に雪が降った。交通は混乱して電車はいつもより50分近く遅延し、バスは渋滞に巻き込まれると徒歩よりも進行が遅くなるような有様だった。そんな僕も慣れない雪に足を取られて何度も転びそうになった。
 時が流れるにつれて祖母の容態は悪化していた。妹や僕のことはもちろん母のことも認識するのが難しくなっており、極端に口数が少なくなっていた。担当医師の久遠先生

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仮初の安全と声色の呪縛_17

仮初の安全と声色の呪縛_17

(前話はこちらから_17/20)



 12月はすぐそこまで迫っていた。今日は予備校での高校3年のクラスを決める大切な模試のはずだったのだが、祖母が大切にしている庭が気になりすぎて、国語のテストはほとんど手がつかなかった。この秋から急激に伸びた英語と数学については問題なく解けたのだが、最後の国語については評論の議題が『看病』についてのもので、一気に集中力がなくなってしまった。おそらくひどい点数

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仮初の安全と声色の呪縛_16

仮初の安全と声色の呪縛_16

(前話はこちらから_16/20)



「先帰るわ」
「おう。病院いってらっしゃい」
 淳に短いメッセージを送るとそう返事がきた。私立文系クラスの僕らはどんどん勉強する科目が絞られていき、専門性の高い授業が行われるようになっていた。僕は大学別の数学の問題を何問も解かされていたので、おそらく淳は大学別の日本史の問題をたくさん解かされているのだろう。選択している科目が違うため、淳とはほぼクラスが被っ

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仮初の安全と声色の呪縛_15

仮初の安全と声色の呪縛_15

(前話はこちらから_15/20)



 急激に気温は下がり、駅から学校までの時間は白い息を吐くようになっていた。いつだって冬は、何の前ぶれもなく僕らの前にあらわれるのだ。さすがの淳も寒いらしく、マフラーを首に巻いている。その姿が大きな熊のマスコットのように見えて、歩く姿は愛嬌があった。
「さすがに淳も寒そうだね」
 僕は淳に話しかける。
「当たり前だよ。もう11月だぞ。海風のせいで体感は氷点下

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仮初の安全と声色の呪縛_14

仮初の安全と声色の呪縛_14

(前話はこちらから)



 祖母のいない祖母の家に来た。病室でもらった鍵を持って。最近こそ一人で来ることも多くなっていたが、基本は家族と祖母に会いに行くことが多いので不思議な感覚だ。
 祖母から渡された鍵は、家の大きさに似合わず小さくておもちゃのようだった。本当に開くか不安になりながら鍵を回すと、まるで僕を歓迎してくれているかのようにスムーズに回り、扉は開いた。
 
 
 家は、人が住まなくな

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仮初の安全と声色の呪縛_13

仮初の安全と声色の呪縛_13

(前話はこちらから)

 祖母の病室から出た僕は、病院内にある喫茶店で祖母を忘れない方法を考えていた。人の記憶が薄れていくことは仕方ないことらしい。てきとうに開いた記事を見る限り最初に失われる記憶は音、つまりその人の声らしい。悲しいが、もし祖母が話せない状態になってしまったら、声を聞く機会はなくなってしまう。声を忘れると、話した内容が曖昧になってしまい、音で覚えていたニュアンスが崩れていき、記憶の

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仮初の安全と声色の呪縛_12

仮初の安全と声色の呪縛_12

(前話はこちらから)



 何だか家の空気が重たい。いつもおしゃべりな母が昨日の夜から口数が少ないのだ。家での会話は、母の他愛もない言葉から始まることが多いので、妹も僕も母の一言待ちになっている。妹は無表情のまま、ものすごい速度で携帯を動かしている。感情が一切ないように見えるが、友人と楽しくメッセージを送りあっているのかもしれない。暇なのか忙しいのかさっぱり分からない。
 僕は完全に暇なので、

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仮初の安全と声色の呪縛_11

仮初の安全と声色の呪縛_11

(前話はこちらから)



 家と予備校の往復で僕の高校2年生の夏休みは終わってしまった。家族でどこかに旅行に行くことも、隆太や淳と海に行くこともなかった。唯一の娯楽といえば、ファミレスで隆太と淳とダラダラと話すことくらいしかなかった。
 もし、夏休みの宿題で日記があったら大変なことになっていただろう。僕からすれば、毎日同じ内容を書くので苦労はない。ただ読む側の立場、すなわち先生には大きな苦痛が

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仮初の安全と声色の呪縛_10

仮初の安全と声色の呪縛_10

(前話はこちらから)



 祖母が入院をしても、予備校は休みにならない。当然だ。昨日は祖母のことが気になり過ぎてあまり眠れなかった。ただ、よく眠ったからといって、数学の問題が解けるようになるわけではない。僕の数学レベルではまだ、自分のコンディションで点数が左右されることはない。何度も数学の問題で挫折をすることで負け癖とは違うのだが、間違える事への抵抗感がなくなった。むしろ間違ってから先生の解法

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仮初の安全と声色の呪縛_9

仮初の安全と声色の呪縛_9

(前話はこちらから)



 気がつくと1時間何もせずに、海を眺めていた。一定のリズムを刻む波の音が、心を落ち着かせてくれる。僕は呼吸に意識を向ける。ゆっくりと息を吸い、同じ強さで長く吐くようにした。胸にあった妙な重たさは少しだけ軽くなり、改めて予備校での太田への発言を思い出す余裕が生まれた。
 人を傷つけることがあんなに簡単にできてしまうとは。そして、この後味の悪さは嫌な感覚しかない。耳の発達

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仮初の安全と声色の呪縛_8

仮初の安全と声色の呪縛_8

(前話はこちらから)



 いつもより予備校までの足取りが軽い。昨日、隆太と淳に話を聞いてもらったからだろうか。それともふたりも僕と同じような苦労をしており、全員がつまらない夏休みを過ごしていることを知ったからだろうか。不幸の共有。話すことによって現実が変わるわけではないが、同じ境遇の友人がいるということが僕の心を少しだけ軽くしてくれる。
 祖母がよく言っている言葉だが、似たような一日を過ごし

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仮初の安全と声色の呪縛_7

仮初の安全と声色の呪縛_7

(前話はこちらから)



 久しぶりに隆太と淳に会った。夏休みに入ってから、それぞれが家と予備校の往復をするだけで一日が終わっていた。学校だとサボれる授業もあるが、予備校ではそうもいかない。真面目に授業を受ける感覚を忘れてしまった僕らなので、授業を受けるだけでクタクタになってしまっているのだ。自分たちの意思で決めた予備校ではないため3人とも違う予備校に通っていたのも集合できなかった原因の一つだ

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