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仮初の安全と声色の呪縛_8
(前話はこちらから)
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いつもより予備校までの足取りが軽い。昨日、隆太と淳に話を聞いてもらったからだろうか。それともふたりも僕と同じような苦労をしており、全員がつまらない夏休みを過ごしていることを知ったからだろうか。不幸の共有。話すことによって現実が変わるわけではないが、同じ境遇の友人がいるということが僕の心を少しだけ軽くしてくれる。
祖母がよく言っている言葉だが、似たような一日を過ごしているからこそ、小さな変化にも気がつける可能性が高くなるし、それが大きな発見なるかもしれない。そんなポジティブな気持ちになれている。
しかし、そんなポジティブな気持ちは午前中で木っ端微塵にされた。現実はやっぱり数学地獄だった。難関な整数問題やら幾何不等式やらをひたすら考えさせられた。昼休憩の時にはもうクタクタになっていた。
机で目を閉じていると携帯が揺れた。隆太からの連絡だ。
「太田さんとは会ったのか?」
「いや、まだ会っていない。午前中の授業を太田は履修していないかも」
「そうか。なんか疲れそうな女だからあまり無理せずにな」
「了解。隆太も頑張れな」
そんなやりとりを行った。隆太の性格上、太田のことなんかすっかり忘れていると思ったが、意外としっかり覚えていたようだ。別に話などをしなければ、太田は無害な存在なのだが、話をすると胸がザワザワするし、何より自分の数学力の低さを実感することが辛かった。
今日の午後からは図形と方程式の授業だ。数式の処理を行う際に必要条件と十分条件を考えなくてはいけなくてかなり苦手だ。
他人からできていないことを指摘されると、なんであんなに腹が立つのだろう。自分で認識しているから、触れられたくないということだけは分かる。
もし太田にできないことを指摘されたらより嫌いになってしまうので、太田に会わないためにいつもの後ろの席ではなく一番前の窓際の席に座ることにした。先生の板書は見づらいがロケーションは抜群だった。横浜駅を行き来している人たちの観察がはかどりそうだ。こんなに暑いのにスーツを着て行き来する人、信じられないくらいおしゃれをして颯爽と歩く人、そして僕のようにただ授業が始まるのを待つ人。それぞれにそれぞれの人生がある。
「早坂、珍しいな。今日はこの席に座るのか」
太田だ。話しながら隣に座ろうとしている。
「まだ後ろの席空いてるよ」
「そうだな」
太田は僕の話は聞いているようだが、そのまま僕の隣に座って、テキストやノート、筆記用具を取り出してせっせと授業の準備を始めている。僕の静かな反抗は虚しく、太田は隣の席に座った。
ボーッと太田を眺める。本当にスムーズにペンが動く。淀みも滞りもなく、数字たちは綺麗に入るべき公式に入り、美しくつなぎ合わされていく。僕の場合、解法のアプローチを考えるために最初はぐちゃぐちゃと仮説を書いたり検証をしたりするので、ノートが汚くなりがちなのだが、太田にはそれがない。本当に数学が得意な人というのは、どんな人か想像できていないが、目の前にいるこの女は確実に数学ができる。
先生が入ってきて、授業は粛々と進んでいった。考え方のポイントを端的に説明するのが評判な先生でとても分かりやすいのだが、解法プロセスが長く、板書は短編小説一本分くらいの量になるため、太田と僕がいる席からだと奥の板書が見にくく、ノートが取りづらかった。
「今日の席は授業が受けづらかったな。早坂のノートを取る姿を見た感じ、解法にも苦戦してるようだったらから、もっと良い席に座るべきだったと思う。そうしないと成績が伸びないと思う」
太田が僕にそう言ってきた。僕は飽き飽きした気持ちで太田に言い返す。
「別に一緒に座ろうとは誘っていないし、僕の数学の面倒を見て欲しいとも言った覚えはない。その話し方とか態度も正直好きじゃない」
昨日の隆太や淳のアドバイスに加えて、最近、数学のパフォーマンスが悪く、イライラしていることもあり、かなりキツイ言い方を太田にしてしまった。太田の表情は一気に曇ってしまい、気まずい空気が二人の間に漂っている。
「ちょっと強く言い過ぎた。ごめん」
慌てて僕が言う。
「いや、いいんだ。私も言い過ぎてしまった。そもそも、座席は自分で取るべきだし、早坂の数学についても口を出すべきでなかった。本当に申し訳なく思う」
いつも一定のトーンの太田の声に若干の低さが加わっていた。何を言っても動じないと思っていたが、やはりきつく言い過ぎてしまったのだ。同じ年の女性を傷つけたことがなく、どのように対処したら良いか分からなかった僕は、足早に教室を出ることしかできなかった。
隆太、淳に電話をかけてこのなんとも言えない気持ちを話したかったが、二人ともまだ授業があったようで電話には出てくれなかった。
放心状態のまま電車に乗った僕は、最寄り駅を乗り過ごしてしまった。この気持ちのまま家に帰っても仕方ないと思い、高校の駅まで行って海を見ることにした。
夕方を過ぎていたが、海にはたくさんの人がいた。夏休みらしいことを一つもしていないため、海が混雑していることをすっかり忘れていた。多くのカップルが水平線に日が沈んでいく光景を眺めている。上空は徐々に暗くなり、太陽の光が海に伸びていく光景はカップルにとっては最高の演出だろう。各々のカップルがその光景を見ながら何を囁き合い、お互いの愛情を確かめ合っている。僕は独りぼっち。語り合う相手はいない。何なら今日、一人の知り合いを傷つけてしまった。共に数学の授業を受ける戦友のような人を失ってしまったかもしれない。
反省をしても時が戻ってくる訳ではない。自分の目ではなく、友人の目を通して太田を見て、自分が思っていないことを口走ってしまったのだ。もし、もう一度太田に会えるならちゃんと謝罪をしたい。僕は海にそう呟いた。しかし海は何も語らない。一定のリズムを刻んで僕のことを見守ってくれているだけだ。