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仮初の安全と声色の呪縛_12

(前話はこちらから)


 何だか家の空気が重たい。いつもおしゃべりな母が昨日の夜から口数が少ないのだ。家での会話は、母の他愛もない言葉から始まることが多いので、妹も僕も母の一言待ちになっている。妹は無表情のまま、ものすごい速度で携帯を動かしている。感情が一切ないように見えるが、友人と楽しくメッセージを送りあっているのかもしれない。暇なのか忙しいのかさっぱり分からない。
 僕は完全に暇なので、流れているテレビを眺めていた。大きな事件もなく、どこかの海でとても大きな魚が釣られたことをニュースキャスターが滑舌の良い、聞きやすい声で話している。


「記憶がなくなったらどうする」
 母が突然言った。妹も僕もびっくりして母の方に顔を向けた。あまりにも唐突な発言で僕らは反応ができなかったが、母はさらに続ける。
「少しずつ記憶がなくなってしまうの」
「お母さん、怖いよ。何を言っているの」
 妹が不安そうな表情を浮かべて、母に伝える。
「ゆきちゃん、ごめんね。ちょっとお母さん気持ちが落ち込んでしまって…。ちゃんと説明するわ」
 妹も僕も嫌な予感しかしなかったが、ちゃんと聞かないといけないことも本能的に分かっていた。
「おばあちゃんね。脳の病気みたいなの。今はすごく元気なのよ。会話だっていつもと変わらずできるし、食事もちゃんと取れているの。でも、少しずつ記憶がなくなってしまうらしくて、失った記憶とともにどんどん衰弱してしまうみたいなの」
 僕は、そんな病気が本当にあるのか信じられなかったし、記憶がなくなるということがどういうことなのか想像ができなかった。数学の特定の問題で使う解法プロセスを思い出せないとかはよくあるのだが、それは僕の頭、記憶からなくなっているわけではない。あるけど取り出せないだけだ。
「おばあちゃんの記憶は、どのくらいの期間でなくなってしまうの?」
 妹は、目に涙を浮かべながら母に聞いた。
「先生の見立てだと…。半年くらいと言っていたわ」
 そんなことがあって良いのだろうか…。祖母は祖父の代わりに家をずっと守り、母たちを育て、僕たち孫の面倒も見てくれている。約70年、たくさんの人を支え、たくさんの笑顔を届けてきた人の記憶が、半年後に全てなくなってしまうなんて。
「とりあえず、おばあちゃんとは、話せる時にたくさん話しなさい。私たちもいつか忘れられちゃうのよ」
 そう言うと母はリビングを出てトイレにこもってしまった。一番悲しいのは母のはずだ。僕らよりはるかに長く、祖母と過ごしているから。僕らに話すか話さないかもきっとすごく悩んだのだと思う。妹もいつもなら片時も離さない携帯を机の上に置き、呆然としていた。今日は誰も病院に行ける精神状態ではない。もちろん僕もそうなのだが、なぜ足は勝手に病院に向かっていた。

 
「あら、今日は慶ちゃん一人?」
 病室に入ると、いつもの祖母がそこにいた。少し寒いのかカーディガンを羽織り、のんびりお茶を飲んでいる。ここが病室ではなく、縁側であれば祖母と僕のいつもの日常だ。
「うん。今日は母さんもゆきも忙しそうにしていた。巻き込まれるのが嫌だったから、おばあちゃんの所に逃げてきた」
 祖母はニコニコしながら頷いている。きっと僕の発言が嘘であることは見抜いているだろう。
 祖母が静かに引き出しを指差す。
「慶ちゃん、プレゼントがあるの」
 僕は祖母に言われた引き出しを見ると、祖母が引き出しを開ける動きをしている。僕は引き出しを開けると小さな鍵が入っていた。
「これは、何?」
「それは、おばあちゃんの家の鍵よ。こないだ慶ちゃんがお見舞いに来てくれた時にせつと賭けをしたと言ったわね。賭けに勝った私の望みは、慶ちゃんに私の家の掃除や整理をしてもらうことだったの。せつは受験生にそんなことさせたくないと言っていたけど、私は慶ちゃんにも息抜きが必要だと言ったの。せつも私も慶ちゃんの意思を全然聞かずに進めちゃったのよ」
 確かに祖母の言う通りだ。賭けの対象が僕の労働力や時間なのに、当の本人は何も知らなかった。でも、祖母の家に出入りできるのはすごく嬉しいことだ。掃除や整理という話だが、祖母は僕に逃げ場を作ってくれているような気がした。
「ありがとう。まさか僕自身が賭けの対象になっているとは思わなかったけど、すごく嬉しい」
 僕は祖母に笑顔を向けると、祖母も僕に笑顔を向けて話し始めた。

「慶ちゃん、私の病気のことは知っているわね」
 僕は静かに頷く。
「記憶がなくなってしまうって不思議よね。小さかった頃の私、おじいちゃんに会う前の青春を謳歌する私、おじいちゃんと結婚して、せつとかと暮らす私。そして慶ちゃんと話す今。それが全部なくなってしまうことは悲しいことよね」
 祖母の声色はいつも通り一定だ。悲しいことも事実だし、それを受け止める覚悟をもう持っている。
「消えちゃう分は、新しい記憶を入れないといけないから、慶ちゃん面白いお話をたくさん持ってきてね」
 僕の複雑な表情を見て、祖母は、くすくすと笑っている。
「そして、おばあちゃんのことを忘れないでね」
 僕は、祖母の顔が見られなかった。きっと笑っているのだと思う。僕は、ただただ涙を堪えることしかできなかった。

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