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【エッセイ】伊豆⑤─三島明神─『佐竹健のYouTube奮闘記(71)』

 北条政子と源頼朝の銅像を見たあと、伊豆箱根鉄道に乗って三島田町駅で降りた。

 町の中を歩き、最後の目的地である三島明神を目指す。

 三島明神は大通りの前にあった。

 灯籠には金色の「三」の文字があった。おそらくこれが、三島明神の社紋なのであろう。

 鳥居をくぐって中に入ると、松の木があった。

 松の木の側には「安達藤九郎盛長警護の跡」という看板があった。

(安達藤九郎か)

 安達藤九郎は、平安末期から鎌倉初期にかけての武士である。源頼朝が伊豆へ流罪となっていたときから彼に仕えていた。出自については、武蔵国足立郡の人とも言われているが、詳細は定かではない。ただ、藤九郎と呼ばれていた辺りを考えると、藤原氏の末の者であったことは確かだろう。

 平安末期から鎌倉初期の人物は、記録の少なさゆえにわからないことが多い。


 松のある鳥居前を抜けると、大きな池が見えてきた。

 池には黒々とした大量の鯉が泳ぎ回っている。そして周りに植えられていた樹木は、青く色づいた若葉を初夏の風に揺らしている。そのさまが、とても涼やかで見ているだけでも癒される。

 池の左端に島があった。島には朱い柱が組まれた大きな祠ほどの大きさのある社が鎮座している。池の島に祀られているのは、大体水神様か弁財天、住吉の神であることが多いので、この社に祀られている神様もそうである可能性が高い。

 門をくぐったら、立派な神楽殿が見えてきた。

 神楽殿は鶴岡八幡宮のように派手なものではなかった。が、その派手ではない感じが逆に厳かに感じられて、趣あるものとなっている。

 床下を横に支えている部分の端に金具が取り付けられていた。模様は青海波だった。

 青海波とは、半円で寄せていく波を表現した日本の伝統的な模様である。古来より着物や彫刻のデザインとしてよく使われていた。

(青海波か。この神楽殿で、青海波が舞われたりとかはしないのかな?)

 ふとそんなことを考えた。模様の「青海波」が舞いを奉納する場である神楽殿に使われていることに何か意味がありそうに感じたからである。

 舞楽には詳しくないが「駿河舞」と「青海波」という単語は知っている。いずれも舞に関連した言葉である。『源氏物語』などの王朝文学をかじったことがある人ならば、この二語を聞いたときにすぐ舞を連想するのではなかろうか。それと三島は伊豆国の西で、目と鼻の先が駿河。おまけに海もそこそこ近いから、何かしら関係があるのだろう。

 神楽殿の奥に社殿があった。

 社殿の装いは、古社に相応しい重厚な作りであった。ところどころに金の鍍金が施された金具が、燻されたような焦げ茶色の柱によく合っている。

 賽銭を入れたあと、私は二礼二拍手一礼をし、三島明神をあとにした。


 三島駅までは歩いて向かった。

 三島明神の門前町ということもあってか、時折古風な建物が目に入ってくる。

 駅も近くなったころ、水路を見つけた。

 水路を流れる水は、驚くほどに澄みわたっていて、その中を泳ぐ小魚の姿が見えそうなほどであった。

(うわ、めっちゃ水きれい!!)

 澄んだ水に、私は驚いた。

 水路といえば、大体水が濁っている。もしくは深くなっていて底が見えないということも多い。だが、この静岡の東側にある水路の水は、ここが街中を通っているということを忘れさせるほどきれいなのだ。これもひとえに、山がろ過装置の役割を果たしているおかげなのであろうか。

 澄んだ水が流れる水路の向こう側から、鴨がやってきた。

 鴨は流れに従いながら、水掻きのようなものが付いた足で水を蹴り、すいすい進んでいく。

「かわいい」

 私はスマホのカメラを起動させ、清流を下っていく鴨を追った。

 流れを味方につけた鴨は、思った以上に速くて、すぐに石橋の影へと姿を消していった。

(続く)


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佐竹健
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