【エッセイ】上野①─いつもと違う道のりと平安・鎌倉の関東歴史語り─(『佐竹健のYouTube奮闘記(24)』)
台風が通り過ぎた6月初めの土曜日。私は三つ目の旧令制国である上野国へと向かうことにした。ちょうど今の群馬県だ。
目指す場所は高崎城。高崎駅からそう遠くない場所にあるので、この城を選んだ。もし時間に余裕があったら、埼玉の鉢形城や山名氏のルーツである山名郷へも行こうと思う。
台風が過ぎていった直後の日だったので、運休や遅れが心配だった。だが、思った以上に早く電車に乗ることができた。快速に乗ったので、川越まであっという間にたどり着いた。
川越駅で降り、休憩と昼食を取った。
本音を申せば、川越も行きたかった。蔵の街を歩いたり、川越八幡宮の花手水の写真を撮ったりしたかった。だが、川越という街は奥が深い街なので、いろいろ回っているだけでも普通に夕方になっているということがよくある。川越については定期的に訪れているうえに動画もあるので、よかったら見てくれると作者としてはうれしい。
川越から電車に乗り換えて、小川町まで行く車両に乗り換えた。川越市駅以北まで行くのはこれが初めてだ。普段東上線を使ったとしても、中板橋駅や成増駅、川越駅か川越市駅ぐらいしか使わないから。
川越駅から乗った鈍行列車は、住宅街を通り抜けて、山間へと入っていく。気がつけば武蔵嵐山へと入っていた。
(武蔵嵐山か……)
ここには源義朝の弟義賢が拠点を構えていた屋敷があった。
義賢は地元の坂東平氏の豪族、秩父重隆を舅に坂東に影響力を増す義朝に対抗しようとした。だが、保元の乱の前に義朝の長男悪源太義平が攻め入ったという事件があった。もっと詳しいことが知りたい人は、私の小説を読むといい。面白さについてはあまり保証はできないが。
このとき、斎藤実盛の手助けで命を助けられたのが、あの木曽義仲である。
もし行く機会があったら、義賢の墓にお参りしたりしてみたい。
小川町駅に着いた。
駅名の下に、
とあった。
「比企郡ね」
私は比企郡と聞いて、比企能員のことを思い出した。
比企能員は平安末期から鎌倉時代の初めにかけて、この一帯を治めていた比企氏の棟梁である。『鎌倉殿の13人』では、佐藤二郎が演じていた。
比企氏は武蔵国比企郡の一帯を治めていた一族で、出自については藤原秀郷の子孫である波多野氏の出とも。能員の義母でおばの比企尼が源頼朝の乳母をつとめていたり、流人時代の頼朝の面倒を見たりしていたことから、数ある武家の中でも、力のある一族だったのは確かだろう。
比企氏が一番栄えたのが、この能員の代だ。
能員は頼朝の乳兄弟、そして頼朝の長男源頼家の乳父兼舅となっていたこともあり、幕府の中でも重きを置く存在であった。
頼朝の死後は若くして二代将軍となった頼家を支える13人の合議制の一人として、絶大な権力を持っていた。だが、時の執権北条時政に警戒され、誅殺されてしまった。その後、能員の一族そのものも滅ぼされた。
ちなみに頼家には子供が三人いたが、このとき長男であった一幡も殺されたとされている。
源頼家の末路についても語ろうと思う。
比企氏が滅ぼされたとき、頼家は病気で生死の境をさまよっていた。
幕府のお偉いさんは、頼家が亡くなるという予測のもと、弟である千幡こと源実朝を将軍にしようと朝廷にはたらきかけていた。だが、北条氏が能員とその一族を滅ぼしたあと、頼家の体調が回復してしまった。周囲の予想を遥かに上回る展開だった。
急すぎる展開に北条氏は、頼家を社会的に抹殺すべく、伊豆の修禅寺に幽閉した。そして、暗殺したと伝えられている(『吾妻鏡』では死因がはっきり書かれていない)。
暗殺されたときの様子について、当時の記録には、
「頭を押さえつけ、局部を斬って殺した」
と書かれている。すさまじい最期である。
比企一族の滅亡後も、北条時政や畠山重忠、和田義盛、三浦泰村といった感じで幕府による御家人の粛清は続いた。なお、将軍に関しては、摂関家や皇族から迎えるのが定例となった。摂関家や皇族出身の将軍は、実朝の失敗や実家の影響力のこともあってか、暗殺されることはなかった。だが、神輿として使えないと判断したら、即座に京都に送り返すようになった。
12世紀末から14世紀中ごろまでの鎌倉という場所は、本当に恐ろしいところだったのである。
東武線の列車を降り、隣にあったJR八高線の駅へと移動した。
普段高崎へ行くとき、JR高崎線から行くのだが、この日は気分で東上線から八高線を乗り継いで行こうと考えた。
車両の停まっていた駅のホームの周りには、新緑が色づいている山々と初夏の水色の空と大きな雲が一面に広がっていた。駅のホームは閑散としていて、人があまりいない。そして線路が延々と続いている。田舎を舞台にしたアニメやドラマなんかで出てきそうなロケーションだった。
「こういうのだよ、私が求めている田舎の風景は」
私は心の中でつぶやいた。人工物が少なくて、ほとんど山と青空なのがいい。人工物はあくまで添えるだけ。それでいいのだ。中途半端な田舎に生まれ、中途半端な田舎で育った私だからこそ、誰よりもそう考えている。
少し武蔵の山々と青空を眺め、私はJR八高線の車両に乗って高崎へと向かった。
武蔵の山々と畑の中を、電車はゆっくり進んでいく。
(続く)
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歴史小説。大蔵合戦についても書かれているので、よかったら読んでください↓