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#教育
シンプルであることの大切さ
相手にスムーズに話が届かないということがありました。
3回全く同じことをほぼ同じ言葉で話しても、その時の相手の状態で、その都度その人の聴き方が変わっていくのです。
例えばこんなやり取りです。
1回目
A「この書類をこういう風に直しておいてくださいね」
B「え?間違っていたんですか?言われた通りにしましたけど。〇〇さんがこう言ったから・・」(間違えを指摘されたと思い、自分を正当化し始める)
リラックスしていることの強さ
以前、あるワークショップに参加しました。
そこで行ったワークがとても興味深く、驚きの体験でした。
それは、二人組になり、AさんがBさんの腕を曲げるというワークでした。
まずはBさんが拳を作って腕に力を入れ、まっすぐに伸ばします。
そこへAさんが力を入れて、その腕の肘を内側へ曲げようとします。
すると、二人は力を入れて押したり抵抗したりした末に、Bさんの腕が負けるかAさんが諦めるか・・という攻防
質の教育〜内的な力を育む〜
今、「非認知能力」を伸ばす・育てる教育が注目されています。
学力や頭の良さなど数値で測ることのできる「認知能力」とは別に、思いやりや自立心・心のたくましさのことを「非認知能力」と言います。
このことについては、解説している人がたくさんいるので、ここでは詳しくは書きませんが、一言で言うと「認知能力」は表側に現れる能力、「非認知能力」は内側にある内的な能力‥言わば、質的な能力のことを指すと、私は捉え
いきいきとした人生を生きる
先日、友人があるテレビ番組を観て、感じたことをシェアしてくれました。その番組は、障害を持っている人が社会で活躍しているところを追う内容とのこと。その中で義足をつけたダンサーが映し出され、友人はその姿に心を打たれたと感動していました。
「障害を持っている人がいきいきと自分を表現している姿を見て、私はあんな風にいきいきと生きていないかもしれない」
という友人の言葉が印象的でした。
今の時代、友人のよ
“大人である”あり方を手に入れる
前回のnoteに
「真の多様性を理解するには、私たち一人一人のあり方はもっと大人で、“成熟”していく必要があると感じています。」と書きました。
今回は、その“大人”をテーマに書いてみたいと思います。
しばらくの間、“大人”について探求してみました。
すると見えてきたのは、自分の中の“子ども”の部分でした。
自分自身に、その“子どもさ”を感じる場面を思い出すと、その時の自分のあり方は「責任を取っ
“ある”も“ない”も在る世界へ
私が大好きなインドの教育者、クリシュナムルティの本の中の一節より。
陽のなかで揺れている木の葉を見つめている生徒は、注意深い状態です。
その時彼を本に引き戻すと、彼の注意を阻害してしまいます。
それに対して、生徒がその木の葉を十分に見つめるように助けることは、彼に注意の奥深さを気づかせることになります。
そこでは気が散るということがありません。
この一節を読んで、私が小学4年生だった時のことを
優しく穏やかな時の流れの中で育つ
私はクリシュナムルティというインドの教育者の言葉が好きです。
愛に満ち溢れシンプルな言葉に、いつもハッとし、考えさせられます。
クリシュナムルティの「子供たちとの対話」という本の一節にあったこの言葉が私の心に響きました。
シンプルな愛とは何か理解できるでしょうか。性愛の複雑さでもなく、神の愛でもなく、ただの愛、すべてのものへの接し方全体が優しくて、本当に穏やかなことなのです。
私たちは、いつも
自由意志から選択することを尊重する
「子どもの主体性を大切に・・」という保育に国の指針が変わりました。
その反面、「子どもの内に〇〇(英語・音楽・知育)をさせておきたい。」と早期教育を重視する考えの方も多くいます。
今までの日本の教育のほとんどは、後者の方かもしれません。
「子どもの主体性を大切に」
「子どものありのままを見守る」
「子どもに寄り添う保育」
これらの保育観は、素晴らしいとは思う。
でも、それをやろうとするけど、なか
“今を体験”=豊かな人生
数人の方から、以下の前回の記事への感想を頂きました。
「あるべき姿ではなく、ありのままの姿」ということを
「自分はできていないなぁ」とか・・
「出来ていない私はダメだ〜」と、中には反省モードの人もいました。
私にもその反省モードと似たような体験がありました。
インターネットで近くの保育園の情報を何気なく見ていたら、シュタイナー教育を取り入れた保育園が出てきました。
そこには園長先生のお話を聞く