「“ADHD”について」/ 投薬の効果・その他(最終話)
前回の内容はこちら▼
ここまで色々、自分自身が感じているADHDの特性や悩みについて述べてきた。
最後に、私が「薬を飲んで変わったこと」と、全体的な総括について述べていこうと思う。
◯薬を飲んで変わったこと
私は普段、「アトモキセチン」という薬を服用している。
「アトモキセチン」は、「ストラテラ」という薬のジェネリック(同じ成分で値段が安いもの)だ。
アトモキセチン(=ストラテラ)は、
脳内にノルアドレナリンを増やし、脳の働きを円滑にする薬で、
ADHDの症状である不注意・衝動性・多動性を改善する薬。
私自身が、この薬を飲むことによって最も変わったのは、「朝起きる時の感覚」だ。
私はたまに薬を飲み忘れて寝てしまうことがあるのだが、普段薬を飲んでいる時と、飲み忘れてしまった次の日では、朝起きる時の感覚がまるで違う。
薬を飲んで寝た日は、
目覚めがスッキリしている。
脳の中を、冷たい氷で突き刺したかのような感覚。(良い意味で)
全体的に、脳が覚醒している。
薬を飲み忘れてしまった翌日は、
一切頭が働かない。何も考えられない。
布団から出られないどころか、動くこともできない。
頭の中に、モヤモヤした灰色のわたが詰められている感覚。
気持ち悪くて吐きそうになる。
丸一日気持ち悪くて、ご飯を食べてもお茶を飲んでも美味しさを感じないというか、すべてのものが表面的な味に感じる。
大学1年生くらいの頃に描いたイメージ図▼
この「目覚め」に関しては、薬を飲むことで明らかに変わっているのだが、他のことについてはあまり変わっている気がしない。
もし薬がすべての特性に効いているのだとしたら、ここに書いたような「遅刻が多い」「忘れ物が多い」「マルチタスクができない」「感情的になる」などの特性も治っているはずだし、
日常生活において、それで困ることも無くなっているはずである。
しかし、未だにそれらで困ることがあるということは、完全には効いていない、ということなのかもしれない。
もしかすると、私が「薬を飲む前」の生活を覚えていないだけで、実際には効いているのかもしれない。
この薬を、高校の頃から6.7年くらい毎日飲み続けているので、それ以前の記憶はあまりないというか、今と比べようもなくて
実は、それ以前の生活と比べると、(覚えていないだけで)今はだいぶマシになっているのかもしれない。
私は、1日くらい薬飲み忘れることはあっても、1週間くらい薬を絶ったことは一度もない。
1週間くらい薬を経って初めて、薬を完全に飲んでいない状態(完全に薬の効果がない状態)になるのかもしれない。
そうなって初めて、薬を飲んでいる状態の「今」と比較できるのかもしれない。
本来なら、1週間くらい薬を絶ってみて、薬の効果がどれだけあるのかを知りたい所だが、
薬を1日飲まないだけで気持ち悪くて吐きそうになるので、1週間も絶ったら死んでしまうに決まっている。
なので、比較することは一生できないと思う。
◯総括
①長所=“ADHD”の特性、という複雑さ
今回“ADHD”について考える際に、私が複雑だなと思ったのは、「自分自身の長所まで、ADHDの特性である」ということだ。
たとえば私は、これまで自分の長所だと思っていたものとして、
・行動力がある
・1つのものに対する集中力がある
・感受性が豊かで、人に対する共感性が強い
などがある。
しかし、よく考えてみると、
・行動力がある=ADHDの「衝動性」(計画せず行動してしまう)
・集中力がある=ADHDの「不注意」(マルチタスクができない、一点集中型)
・感受性が豊か=ADHDの「衝動性」(感情的になる)
という感じになってしまう。
“ADHD”も、その他の特性や性格も、すべて私個人を形成している個性のひとつだということはもちろんわかっている。
そんなことはわかった上での話だが、私の長所もすべてADHDの特性だというのなら、
私本来の長所ではないような気がしてきて、
私個人の持っている特別なものでないような気もしてきて、
よくわからない複雑な感情になる。
私だから行動力・集中力・共感力がある、
じゃなくて、
ADHDだから行動力・集中力・共感力があるだけ。
になってしまったら、もうそれは私じゃなくても良いのではないか、と思う。
この長所は決して私だけのものではない、
ADHDの人なら誰しも持っている特性なんだ。
こんな感覚だ。
②“ADHD”という診断による「生きやすさ」
世の中には、“ADHD”グレーゾーンの人や、確かに傾向はあるけれど病院でちゃんと診断はしていない、という人も山ほどいると思う。
私はそういう人たちに対し、一概に「診断した方が良いよ!」と言うことはできない。
しかし、私の場合、“ADHD”だと診断されることによりかなり生きやすくなった、ということだけは伝えたい。
まず、自分の苦手なことに対し、「私のこの特性は、ADHDの“不注意”が関係しているんだ」などと分析することができる。
自分のどういう特性が原因で、日常生活にどういう支障をきたしているのか、が形態として理解できる。
それにより、自分の中での安心感につながる。
また、生活する上で困らないように対策を立てるのもやりやすくなる。
また、「私には脳のこの成分が足りていないから、こういう特性があるから、他の人と比べてこれができないのは当たり前のことなんだ」と思うこともできる。
それを知らない状態だと、「なんで他の人にはできることが自分にはできないんだ!!!」とひたすら自分を責めたり、自己嫌悪に陥ったり、病んだりして精神を壊してしまうと思う。
何も知らずに、ただ「周りの人よりもできないことが多いな。自分はダメな人間なんだ。」と思うのではなく、
「私、ADHDの割にがんばって生きてるじゃん!!!それだけでえらい!」と、無意識に自己肯定感を上げることもできる。
また、人に対して自分の苦手なことを伝える際にも、“ADHD”という言語を通すことで、伝わりやすくなる。
今回もnoteに書いたように、
・ADHDの「不注意」の特性により、遅刻や忘れ物が多くなる。
・ADHDの「多動性」の特性により、長時間じっとしているのは苦手。
・ADHDの「衝動性」の特性により、つい感情的になってしまう。
など、論理立ててわかりやすく伝えられる。
こんな感じで、診断されるとそれだけで生きやすくなる、という場合もある。
自分が発達障害のグレーゾーンかな、と思う人は、診断を受けるかどうかの判断をする際に、この考え方も活用してほしいと思う。
③「カミングアウト」について
世の中には、「“ADHD”である」ということを、周りに知られたくない人や、隠したいという人もいる。
確かに、“ADHD”だと知られることで、偏見の目を向けられることもあったり、仕事や人間関係においてハンデになってしまうこともあると思うので、隠したくなる気持ちもわかる。
また、隠し通して「普通の人」のフリをしながら生活できる人は、純粋に凄いなともと思う。
しかし、私は逆に、私が“ADHD”であるということを、周りの人全員に知ってほしい、と思う。
知った上で、「ADHDなのに普通の人のフリして生活できててすごいね」「ADHDなのに、普通に大学も卒業できて、普通にバイトもできて、普通に就職もできて、普通に友達もいてすごいね」と思ってほしい。
決して、“ADHD”に託けて甘えたいわけではない。
「ADHDなんだからできなくてもしょうがないよね」「甘く見てあげよう」と思われたいわけではない。
ただ、「ADHDのわりにがんばってるよね」と思ってもらいたいだけ。それだけだ。
【参考サイト】
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