『THE BATMAN ザ・バットマン』 : 本当に怖いのは、 善人だけが 〈堕ちる〉ということ。
映画評:マット・リーブス監督『THE BATMAN ザ・バットマン』
正直なところ、やや期待はずれだった。出来としては、決して悪くはなく、エンタメとして十分に楽しめる作品に仕上がってはいる。しかし私は、一一バットマンファンなのだ。そのぶん期待も大きかった。
クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』のレベルを期待してはいなかったが、それでも、あの作品の後に「バットマン」をやるからには、それなりの覚悟があっただろうし、ましてや、わざわざ「ダークな作品」ということを強調した前評判(前宣伝)だったから、『ダークナイト』とは、また違った方向性での「ダークさ」を期待したのだが、まさにここが、期待外れだった。
『ダークナイト』の「ダーク」さというのは、端的に言えば「人間の心の、闇落ちの容易さ」みたいなことだった。
『ダークナイト』のバットマンの「正義のための暴力」がそうであったように、実際のところ、善行と悪行はしばしば同時に存在する。だから、本物の善人が「善かれと思って、悪を為した結果、止めどもなく悪へと堕ちていく」とか「正義漢ゆえの絶望のあまり、悪へと堕ちる」とかいったことがある。
そんな、人間の「善悪バランスの危うさ」を描いて、『ダークナイト』は極めて「リアル」な作品でもあれば、「倫理」や「正義」というものの危うさを描いた、実に「重い」作品であり、その意味での「ダークさ」を持っていた。
(『ダークナイト』の、左から、トゥーフェイス、ジョーカー、バットマン)
しかし、そのような方向性での「ダークさ」で、『ダークナイト』を超えることは困難であろうと思われたので、私は本作が、単純に「人間の狂気とその醜怪さ」を描いて「ダーク」な作品になるのではないか、と期待していた。そもそも、今回の中心的ヴィランであるリドラーという犯罪者は、殺人を犯しながら「なぞなぞ」を残していくという「フザケた」、その意味で「気味の悪い狂いかた」をしているのだから、その狂気と「エグさ」を描くのには、うってつけのキャラクターなのではないかと考えたのだ。
ところが、今回のお話は、そういう「狂気」を(深く)描いた作品ではなく、端的に言えば、「常識的倫理」を描いた作品に過ぎなかったのである。
(※ 以下、ネタばらしがありますので、未鑑賞の方はご注意ください)
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本作では、若いバットマン(ブルース・ウェイン)が描かれる。
彼は幼い頃、路上強盗犯によって両親を目の前で殺されており、両親を助けられなかったという負い目と心の傷を抱えたまま成長した、暗い青年である。
両親の死後、ブルースを実質的に育てたウェイン家執事のアルフレッドは、ブルースに悪に立ち向かえる力をつけさせるために彼を鍛え上げたうえで、彼の求めに応じてバットマンとしての装備を与えた。
そしてブルースは、両親を奪った犯罪者たちへの「復讐心」から、ゴッサム・シティから犯罪を無くすために、バットマンとして街の闇を彷徨い、犯罪者たちを痛めつけていく。「この街にはバットマンがいる。俺が恐ろしければ、犯罪をやめろ」というわけだ。
だが、彼一人では、広い街のすべての犯罪者を抑え込むことはできない。だから、彼は、個人の「実力」だけではなく、「バットマン」という「恐怖の影」によって、犯罪者を少しでも押さえ込もうとしたのだった。
そんなおり、ゴッサムの市長、警察署長といった、街の治安を担当する権力者たちが、狂気の犯罪者リドラーによって殺され、リドラーはネットに「悪人たちの仮面を剥ぐ」という趣旨の動画を公開する一方、現場にバットマンへの「謎かけ」の挑戦状を残していく。
リドラーの残した謎を追っていくうちに、ブルースは、殺された市長をはじめ、少なからぬ警察官や検察官たちが、裏で犯罪者とつながっていたことを知り、やがて、殺された自分の父親さえ、スキャンダル隠しのために、それを嗅ぎつけたジャーナリストを死なせるという犯罪に連なっていたことを、リドラーに教えられる。
父親の正義感を信じきっていたブルースは絶望するが、「親の罪の報いを、子が受けろ」とブルースを狙ったリドラーの爆弾によって大怪我をしたアルフレッドから、ブルースの父親は決して犯罪を犯したわけではなく、迂闊に彼らを使ってしまったために、結果として犯罪に巻き込まれたのだ、と説明される。
これは、長らく日本の政治家なども、裏で「裏社会の顔役(フィクサー)」といった少々問題のある連中に、問題解決を依頼したりしたのと、似たようなことだろう。要は、金を払って、裏で「話をつけてもらう」つもりだったのが、勝手に「殺してしまった」というわけである。
この映画を見るかぎり、ブルースは、全幅の信頼を寄せるアルフレッドの「説明」を信じたように見える。つまり、父にも落ち度はあったが、犯罪を犯すつもり(殺害を依頼したわけで)はなかったのだとそう理解した、ということである。しかし、現実問題としては、そんな話を信用するのは、「お人好し」に過ぎよう。
かつて、ブルースの父が市長選に出馬し、その際、彼のスキャンダルを嗅ぎつけたジャーナリストを金で黙らせようとし、結果的に死なせてしまったという「不測の事態」に関しては、もしかするとアルフレッドの言うとおり、ブルースの父に「故意」はなかったのかも知れない。
しかしながら、ブルースの父は、一代で大財閥を築き上げた人間なのだから、汚い手など一度も使ったことのない、単純に「清廉潔白な正義の人」だった、などとは、普通は考えられないからである。
ともあれ、リドラーは、「街の有力者たちの罪を暴き、そして裁く」というかたちで、一種の「正義」を掲げ、それをネットでアピールすることで「虐げられた人たちの復讐心」を煽り、彼らを利用することによって、自身の歪んだ「復讐」を果たそうとした。
そのやり方を目の当たりにしてブルースは、「復讐」は「正義ではない」し、「恐怖による支配」では「正義は実現できない」ということを学ぶ。そして、自らのそれまでのやり方を反省し、人々を導く「希望」になろうと決意する。
一一本作は、そんなお話なのだ。
なるほど「正義のヒーロー」の誕生譚としては、非常に手堅くまとまってはいるだろう。「絶望」から「否定的感情」を経て「真の理想としての希望」を見出すという、青年バットマンの成長譚である。
しかし、これでは『ダークナイト』が描いた、リアルな「倫理問題」からの後退、にしかなっていない。
もちろん、「復讐」は「正義ではない」し、「恐怖による支配」では「正義は実現できない」というのは事実であろうから、その「乗り越え」を目指すこと(=理想)は、基本的に正しい。
しかし、「目指す努力」と「実現できる」こととは、まったく違う。そこには、無視できないほど大きな逕庭が横たわっており、そこにこそ「闇の淵」が潜んでいるのだが、本作『ザ・バットマン』は、その「現実」を、故意に無視して「理想的なお話(おとぎ話)」に仕立て上げてしまっているのだ。
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本作が、どうしてこんな「おとぎ話」になってしまったのかというと、結局は「善人は善人、悪人は悪人、キチガイはキチガイ」ということで、それぞれの「性格」が、ご都合主義的に「固定」されているからである。
つまり、汚職をした役人たちは、もともと「弱い人間」であり、その意味で最初から「悪の種」を抱えていた人間で、バットマンの盟友であるゴードンのように、汚職しない者はしないのである。また、ブルースの父がそうであったと「暗示」されるように、「善人は、やっぱり善人」だったのであり、リドラーのような「狂気の犯罪者」は、「狂ってしまった、可哀想な被害者」ではなく、所詮は「もともとキチガイだった(悪の種を持っていた)」というように描かれてしまい、彼らを産んだ「普通に欲得まみれの人間たち」の問題については、ついに追求されることはなく、ブルースの「成長」の方に話がズラされて、観客は、言わば「良いお話」的な外見(仮面)に「欺かれてしまう」のである。
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本作が、避けて通ったもの。それは、『ダークナイト』の描いた「善人と悪人は紙一重」だという現実であり、「悪人が善人へと更生する」のは容易なことではないが、「善人が悪人へと堕落(闇堕ち)する」のは一瞬だ、という厳しい現実である。
例えば、私たちは「note」をやっていて、できれば「お金が欲しい」とか「有名になりたい」とか思わないだろうか。そして、簡単に「お金が稼げる方法」があれば、それが犯罪でさえなければ、それを採用しないだろうか。「こうすれば、すぐに投げ銭が稼げますよ」などという「甘い言葉」に惹かれたりはしないだろうか。あるいは、そんな「嘘」を囁く側に、なってはいないだろうか。
結局のところ、本作『ザ・バットマン』で描かれたように、汚職市長や汚職警官といった人たちも、根っからの「犯罪者」や「大悪党」というわけではないのだ。
ただ「出世したかった」「地位と名誉と金が欲しかった」あるいは「最初は、生活の足しになる副収入が欲しかった」「みんな、やってることじゃないか」といったことから、「悪の泥沼」へと踏み込んでいったのである。
つまり、私たちが、ブルース・ウェインのような「ナイーブな正義感に目覚めた、青年大富豪」でないのは当然として、むしろ私たちは、汚職市長や汚職警官の方に、よほど近いのではないか。
「金も力も無い」私たちは、しかし、その「清廉潔白さ」だけを頼りにして、地べたから虫けらのように告発の声を上げるだけの「か弱い存在」であることに、果たして耐え得るような「強さ」を持っているだろうか。「悪」の手で、捻り潰されるのを承知で、それでも「不相応な力」など欲しないと、自制できるような「強い人間」であろうか。
もちろん、そんな「強い人間=ヒーロー」などどこにもおらず、私たちはせいぜい「善と悪との葛藤の中で、闇堕ちに堪える人間」であり続けることだけが、精一杯の努力であり、唯一の「希望」なのではないか。
端的に言って、あなたに「バットマン」の「力と財力」が与えられたとしたら、それでもあなたは、「私心」を捨てて「この世の悪との、終わりなき戦い」に身を挺し、死んでいく覚悟を持てるだろうか。
そういう人も、ごく稀にはいるだろう。だが、100人中99人は「自分の幸せ」を、当たり前に求めてしまうのではないか。しかし、その時に、私たちの「闇堕ち」は始まるのである。
「悪の闇」に染まりたくなかったら、「悪と闘う」前に、自分の中の「悪」を征服しなければならないのではないか。それは「地位も名誉も金もいらず」、ただ「世の不条理」に、悔し涙を流しつづける人間に「止まり続ける」という覚悟でなのではないだろうか。
(2022年3月19日)
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