ペールフィット他 『特別な友情 フランスBL小説セレクション』 : BL的 日だまりへの 〈文学的挑発〉
書評:ペールフィット他『特別な友情 フランスBL小説セレクション』(新潮文庫)
まず最初に書いておくと、本書は、いわゆる「BL小説」集ではない。その原型となるものや、その源流となった作品を集めたものである。
したがって、どちらかと言えば、「同性愛小説集」とか「ホモセクシャル小説集」といった、もうすこし広い概念に属するものとなっている(さらに、そこに描かれるのは「同性愛」だけでも「ホモセクシャル」だけでもない)。
それは、収録作家名(ペールフィット、ジッド、マルタン・デュ・カール、プルースト、ヴェルレーヌ、ランボー、ラシルド、コクトー、カサノヴァ、ジュネ、ユイスマンス、サド)を一瞥しただけでも明らかであろう。
一部のその筋(BLファン界隈)での有名作家を除けば、あとはすべて、フランス文学、あるいは世界文学の巨匠とされている作家なのだから、彼らの作品が、今の日本の「BLファン」が考える「BL小説」の範疇になど収まるべくもないのである。
そして、こうした、ある種の「看板に偽りあり」については、編者が「意図的」に行ったものであることが、「編訳者解説」に明記されている。
華憐による華麗きわまりない装画と、おもいきり思わせぶりな帯の惹句に惹かれて本書を手にとった、多くのBLファンは「こんなのBL詐欺!」と思うだろう。そう思って当然の内容なのだ。
特に、わざわざサドの作品で本書をしめくくるあたり、編者の「悪意」を感じないわけにはいかない。
しかし、私は、編者のこの「悪意」を批判したいのではない。なぜなら「文学」とはもともと「悪意をもって、俗情や俗見に挑戦するもの」だからである。
しかしまた、そんなことを、わざわざ「BLの小さな日だまり」でやらなくても良いではないか、他にやるべき場所はもっとあるだろう、という気持ちも否定できないのだが、たぶんこれは、BLが市場として巨大化したがための、災難なのかもしれない。
ともあれ、編者は、当たり前のように『何より「読み物」として面白い作品を選んだつもり』などと、ビッグネームたちの権威に依拠して、ヌケヌケと書いているが、本書は「多くの読者」にとって、一般に『「読み物」として面白い作品』が多い、とは言いがたいはずだ。
そもそも、一般の読者は「同性愛」小説には惹かれないし、そういうものが好きなはずの「BLファン」に対しては、その好みを挑発するような「クセ玉」作品を投げつけているのだから、本書が純粋に『「読み物」として面白い作品』と感じられるのは、もともと収録されたビッグネームの作品が好きな「仏文ファン」に限られるのではないかと思う。
で、私個人に関して言えば、どれもそんなに『「読み物」として面白い作品』とは感じられなかった。
私はもともと、フランス文学者である澁澤龍彦の(著作の)ファンであり、その関係で多少はフランス文学にも触れたが、基本的には、フランス文学は、私の趣味ではなかった。まして、私は「同性愛小説」や「BL小説」が好きなわけではなく、あくまでもそれを「時代の精神を反映した文学潮流のひとつ」として、言わば社会心理学的な興味から多少は読んできた、という人間なので、それらに『「読み物」として面白い』ことをさほど期待はしなかったし、実際、それほど楽しめもしなかったのである。
しかし、いずれにしろそれは「私個人の好み」の問題であって、もちろんフランス文学のビッグネームの諸作を否定するつもりはないし、自分にわからないものを否定するつもりも、毛頭ないのである。
そして、そうした観点からすれば、やはり、編者の「文学的イヤガラセ」には、一定の価値を認めるのだ。
「同じような」「自分好みの」「楽しい」作品ばかり読むのも、それはその読者の勝手だけれども、しかし、世の中にはいろいろと興味深いものがあるのだということを知っておいても、それはけっして悪いことではないし、怖れるべきことでもないからである。
ちなみに、ユイスマンスの『さかさま』の訳文には驚かされた。
当然のことながら、私は澁澤龍彦訳の『さかしま』を読んでいるのだが、その「印象」がまったく違っているからだ。
これは、主人公のデ・ゼッサントを、澁澤龍彦流に「ディレッタント(高踏趣味人)」として訳すか、編者である森井良流に「ひきこもりのオタク」として訳すかの違い、といったところだろう。
こうした部分にも、本書編者の「文学的悪意」は、ハッキリと顕われている。
つまり本書は、そのような翻訳アンソロジーとして読まれるべきなのである。
初出:2020年1月19日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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