蓮實重彦曰く 「小津安二郎ファンもまた、おおむね 馬鹿である」。
先日、蓮實重彦の「小津安二郎評価」に関する「小津安二郎は「変態」である と、 蓮實重彦は言った。」と題する文章を書いた。
同稿執筆の際、「蓮實重彦 小津安二郎」でネット検索していたところ、小津にかかわる蓮實の最新の文章を見つけたのだが、これがなかなか面白かったので、これについて書いてみようと思う。
したがって本稿は、言うなれば「蓮實重彦の現在」とでもいうような文章だが、ここで検討に付される蓮實文の内容こそが、本稿のタイトル「蓮實重彦曰く「小津安二郎ファンもまた、おおむね馬鹿である」。」ということになる。
さて、問題の蓮實文だが、これは筑摩書房のPR誌『ちくま』の本年(2024年)1月号に掲載された、連載エッセイ「些事にこだわり」の第17回分を、「webちくま」に転載したもので、この回のタイトルは「久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思いださせてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について」という、いかにも気障に長ったらしいものとなっているが、短文なので、ぜひ目を通してほしい。
蓮實がここで何を書いているのかというと、要は、昨年(2023年に)開催された「東京国際映画祭」の一環で行われた「小津安二郎生誕百二十周年のメモリアル・イベント」が、あまりにもひどいものだったので『久方ぶりに烈火のごとく怒った』のだが、それに比べたら、20年前に蓮實自身も深く関わった「小津安二郎生誕百年・没後四十年の記念イベント」の方は、なんと素晴らしかったことかと、そういうお話である。
まあ、これだけですでに、蓮實らしい「手前味噌」全開ではあるが、ともあれこのエッセイの中身を、少々検討したい。
なにしろ、いかにも蓮實重彦らしく、ハッキリとは書いていないものの、蓮實はここで、この「小津安二郎生誕百二十周年のメモリアル・イベント」はもとより、かつて自分たちが企画した「生誕百年・没後四十年の記念イベント」においてさえ、そこに集まった「小津ファン」は、おおむね馬鹿だと「語っている」からである。
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蓮實エッセイの冒頭は、次のとおりである。
この部分で注目すべきは、蓮實重彦の基本的な人間観とは、当然のことながら『例外』はあっても、
という点だ。
これを、私がいつも重宝して引用している、SF作家シオドア・スタージョンの言葉に置き換えると、こうなる。
つまり、「国籍、性別、年齢の違い」に関わりなく、この世の中は「馬鹿ばっかりだ」ということであり、この点では、私には珍しく、蓮實と意見を同じくしているようだ。
しかし、そんな私が、なぜここまで蓮實を嫌うのかというと、蓮實重彦とその弟子である映画監督・黒沢清の対談本『東京から 現代アメリカ映画談義』のレビューにも先日書いたとおりで、要は、蓮實が「陰険」で「不誠実」な「嫌らしい性格の持ち主」だからである。
私の場合は、「大半の者は馬鹿だ」と思っていることを隠さず、あいつもこいつも「馬鹿だ」と、根拠を示した上で、そう正直に書くし、『あらゆるものの9割がクズである。』と書く以上は、自分の友人知人だって、9割はクズだと思っていることを隠さない。だから、「それは違うだろう」と思えば、友人知人でも遠慮なく「批判」する。
例えば、ショートメッセージなどによる個人的なやりとりであっても、「それは違う」と思えばガンガン批判するし、それが非公開のやりとりだからというので、相手がのらくらと誤魔化して、うやむやのうちに引き分けのかたちに持ち込もうなどとしたら「なんなら、このやりとりをぜんぶ公開して、白黒つけようじゃないか」などとやったことも、一度や二度ではないから、私にそのように責められた友人は、私と議論になりそうになったら、さっさと撤退するようになった。
それほど、私は「態度の一貫性」にこだわる人間だということなのだが、蓮實重彦の場合は、それとは「真逆」なのだ。だから、心底、嫌いなのである。
どう「真逆」なのかというと、蓮實の場合、「馬鹿だ」と言っているに等しい相手に対しても、決してそう明確には言わないで、いつでも誤魔化すし、それに止まらず、まるで肯定的に評価しているかの如き、欺瞞的なレトリックを弄することもしばしばなのだ。
つまり、私は、人を「馬鹿だ」と評価しても、その相手を同じ人間だと尊重して、可能なかぎり、正直に自分の評価を表明するのだが、蓮實重彦の場合は、相手を「同じ人間」だとすら見ておらず、相手に対して「誠実であろう」とする気など、毛ほどもない。だから平気で、そういう相手を「騙す」ことができるのである。
で、私はこういう「陰険」さが、大嫌いなのだ。
評価していないのならいないで、正直のそう言えよ、それが相手への最低限の「誠実」であり、人としての倫理だろうと、そう思うから、ニヤけヅラで、平気で「頭の悪い人たち」を騙している蓮實重彦が、ペテン師同様の人種として、嫌悪を禁じ得ないのである。
で、話を戻すと、蓮實は、上に引用した部分で、ハッキリと、
と書いている。
ということは、「その会場に集った人々」についても、当然のことながら『おしなべて「愚かなもの」である』と考えているはずだ。
しかしこのままだと、「小津安二郎ファン」の9割を敵に回すことになり「商売があがったり」になるから、最後はしっかりと、
と書いて、『聴衆のほとんど』が、まるで蓮實自身と「同様の小津安二郎ファン」であると認めている「かのように」書いているのである。
だが、当然のことながら、こんなものは「大嘘」である。
たしかに、このイベントで蓮實を『烈火のごとく怒らせた』のは、イベントの主催者である。
(「なーにが『烈火のごとく』だ。この二枚舌ジジイが」とは思うが)
つまり、「電通」と考えて良いであろう『さる広告代理店――オリンピックをはじめ、この組織が絡むと碌なことにはならない』と『音楽専門のラジオ局J-WAVE』や『ヴェンダースの新作『Perfect Days』の製作にかかわったTHE TOKYO TOILET Art Projectなる組織』という、小津安二郎のことはもとより、映画のことすら碌にわかっていないのであろう輩の、無内容かつ出鱈目なイベント運営を批判しているのであり、事実このイベントは、ここで紹介されているとおり、酷いものであったようだ。
(ちなみに、「電通」だと、ハッキリ書かないところに、蓮實重彦流の打算がはたらいているのは、まず間違いない。一方「音楽専門のラジオ局J-WAVE」や「THE TOKYO TOILET Art Projectなる組織」の方は、ぜんぜん怖くないから名指ししたのであろう。後の二者は、今後とも蓮實とは無縁だからだろう)
しかし、この「イベント主催者」の酷さに激怒したからといって、その会場に集った観客たちが「愚かなもの」ではないということには、当然ならない。
なぜなら「愚か者たちが愚か者たちを愚か者だと、自分のことは棚に上げて批判する」なんてことは、ごく当たり前にあることだからだ。
つまり、『何という聴衆への侮蔑。』とか『聴衆のほとんどを烈火のごとく怒らせた』などと書いて、さも自分以外の「聴衆」たちも、自分と同じ側だと肯定的に認めているかのような書き方を、蓮實はしているけれども、しかしそれは、「度しがたいイベント主催者」に対する「怒り」の共有という点では蓮實と同じではあり得ても、「度しがたい馬鹿」だという点では、「聴衆」たちはむしろ「イベント主催者」側だと、そう考えられているのである。
考えてもみてほしい。なぜ、このイベントでは、
が、行われたのであろうか?
無論それは、「聴衆」の多くがそれを望むだろうと「イベント主催者」側が(多くの先例に照らして、そう)考えたからなのだ。
蓮實はここで、巧みなレトリックによって誤魔化してはいるけれど、実際、このイベントに集った「聴衆」の多くは『スマホを登壇者に向けて掲げるという不気味かつ無意味な』行為を、喜んでしたはずなのだ。
この部分が、この『行事』に関する一般的な説明だったのであれば、ここで『聴衆どもの大半が』と書く必要はない。「聴衆が、スマホを登壇者に向けて掲げるという不気味かつ無意味な行事」と書けば、それで良かったはずなのである。
つまり、この「小津安二郎生誕百二十周年のメモリアル・イベント」に集った『聴衆どもの大半』は、イベント主催者の「読みどおりに」、嬉々として『スマホを登壇者に向けて掲げるという不気味かつ無意味な行事』に参加していた、ということなのである。
したがって、『聴衆どもの大半』は、「イベント主催者」の眷属であり、要は、蓮實重彦から、烈火のごとき憤怒を向けられて然るべき「馬鹿ども」だということなのである。
しかし、この程度のことは、ここまで懇切丁寧に説明しなくても、本来なら「わかりきった話=わかって然るべき話」でしかない。なにしろ蓮實は、最初に、
と断言しているのだから、「小津安二郎ファンもまた、おしなべて愚か」だというのは、理の当然なのだ。
しかし、「小津安二郎ファン」の『大半』は、この程度の文章も、まともに読み解けない馬鹿ぞろいだから、間抜けヅラを晒して『スマホを登壇者に向けて掲げるという不気味かつ無意味な』こともできたのである。
いまさら言うようなことでもないが、「大衆」とはその程度のものであり、知ったかぶりで「小津安二郎ファン」だとか「映画ファン」だなどと言っている者の『大半』、つまり、スタージョン流に言うなら『9割』もまた、「馬鹿」であり「クズ」なのである。
それなのにまだ「自分は、小津安二郎ファンだから、わかる人間だ」などと思っている奴は、本当に度しがたいほどの馬鹿なのだが、しかし蓮實重彦は、むしろそんな奴の方が『大半』だと思っているからこそ、平然と「嘘」をつくこともできるのだ。馬鹿どもに対して「誠実」である必要などないと。
だが、このあたりが、私と蓮實重彦を隔てるところで、私は「たとえ馬鹿であっても、同じ人間であることに違いはない」というナイーブな人間観(理想)を持っているから、本音を隠すことなく「あんたらは馬鹿だ」と、根拠を示して、そう言うのである。それが私の「誠実」であり、「批評」だからである。
そんなわけで、蓮實重彦は、このエッセイで、実質的に「小津安二郎ファンも、おおむね馬鹿である」と断言している。
しかし、そんな「わかりきった話」で終わらせず、付け加えて言うなら、蓮實重彦の本音とは、なにしろ、
というものなのだから、蓮實自身の友人知人であっても、『おしなべて「愚かなもの」』だと、蓮實がそう思っているのは間違いないと、そう指摘しておきたい。
このエッセイでは、今回のイベントの登壇者である映画関係者として『黒沢清、ジャ・ジャンクー、ケリー・ライカート』の名が挙げられ、20年前のイベント関係者として『吉田喜重、山根貞男』と『朝日新聞社の古賀太記者(当時)』の名が挙げられているが、蓮實の「本音」としては、少数例外はあれ、これらの人もまた『おしなべて「愚かなもの」』だと考えていることだろう。
ただ、いつものとおりで、利害関係のある「業界関係者」については、臆面もない「お世辞(ヨイショ)」という「嘘」のつけるところが、蓮實重彦の蓮實重彦たるところなのである。
ただしまた、蓮實の弟子である黒沢清くらいになれば、こうした「蓮實重彦の本音」を理解した上で、あえて黙っているのだと見ていいだろう。
何十年も蓮實と付き合ってきて、そんなこともわかっていないのだとしたら、そのほうが、よっぽどの馬鹿だからだ。
ともあれ、小津安二郎のファンを自認する人は、せめて自分が蓮實重彦から「見下されている」という自覚くらいは持った方がいい。
またもし、「いや、私は、蓮實に見下されている『大半』には入らない人間だ」とそう自負しているのであれば、せめて蓮實重彦の「小津安二郎論」くらいは読んで、蓮實を論理的に批判するくらいのことはすべきであろう。
そんなこともできないでいて、自分一人で賢いつもりでいるというのは、それこそが「馬鹿な大衆」であることの、なによりの自己証明にしかならないのである。
(2024年1月31日)
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