見田宗介 『超高層のバベル 見田宗介対話集』 : 〈対話者〉の資質に非らず
書評:見田宗介『超高層のバベル 見田宗介対話集』〈講談社選書メチエ〉
著者の著作は、まだ『気流の鳴る音 交響するコミューン』(真木悠介名義)と『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』の2冊しか読んでいない。その2冊が面白かったので本書を手に取ってみたのだが、正直なところ、期待はずれの感が否めなかった。著者は、あまり「対話」上手ではないようだ。
つい先日、初めてまとめられたという(文庫オリジナルの)、和辻哲郎の対談・座談集『和辻哲郎座談』(中公文庫)を読んだが、これも期待はずれだった。それで、同書のレビューに、
と書いたのだが、それと同じことが、本書『超高層のバベル 見田宗介対話集』言えるのではないか。
事実、本書も、著作のたくさんある人気社会学者にしては『初の対話集』だし、実質的な全集にあたる「定本 著作集」の刊行もすでに終えているのだから、いわば「落ち穂拾い」に近い「余技としての対談」集成的な企画だったのではなかったろうか。
本書対談のつまらなさは、いつでも見田と対話者のどちらかが、ほとんど一方的に話し、もう一方が「お話をうかがう(拝聴する)」という形になってしまっていて、四つに組み合い火花を散らすとか、丁々発止とやりあうといった「スリリングな展開」が皆無だからである(編集者が、それを期待して組んだ、廣松渉との対談ですら、そうはならなかった)。
しかし、本書の最後に収録された、加藤典洋との対談を読んで、なぜ見田の対談はつまらないものになるのか、その理由が了解できた。
加藤はここで、見田の個性を、長所として褒めつつ、その限界や問題点も、暗に指摘している。
要は、見田宗介という人は、全体としてつまらないものでも、決して「つまらない」とは言わない人だし、そのようなことで「他者と正面切ってぶつかる」ということの出来ない人なのである。
見田は、「自分の内部」での「文学的なセンスと学術的な論理性のぶつかり合い」は求めても、「他人」との間での、現実的なぶつかり合いは求めない。むしろ、そういう意味での「直接的肉体性」には、嫌悪すら覚える人なのではないだろうか。だからこそ、彼は時に「霊的=感性的」であったり、はたまた「精密論理的」ではあり得ても、いずれにしろ「肉体的」ではないのである。
もちろん、誰に対してであろうと「円満具足の完全性」を求めるのは、無理な話なのだろう。だが、見田宗介(=真木悠介)という才人が、その力量のわりに、思想・批評界において主流を歩けなかった理由は、このあたりに存するのではないか、と疑ってみる必要はあろう。
なるほど「人柄のいい人」「人間がいい」人たちとの付き合いの方が、心穏やかに、伸びやかにいられるというのは間違いない。しかし、世の中は「人柄のいい人」「人間がいい」人ばかりではないし、そうではない(嫌な)人の存在を無視し(排除し)て、この世界を考えることもできない。誰もが「恵まれた環境」を選べるわけでもない。そもそも、芸術家や思想家だって「人柄の悪い(嫌な)人」は少なくなく、それでいて無視できない才能を持っている人は確かにいる。そうしたものが、この世の現実なのだ。
それなのに、こうも簡単に『人柄のいい人です。人間がいい、ということは、とても大切なことです。』などと言ってしまっていいのか。
もちろん、ゼミを運営するプロの教育者としては「一人を切り捨てて、十人を救う」というやり方もありだろうが、一方で、逆に「教育者」としては、それでは「目先の問題回避」でしかないと批判されても仕方なかろう。
と加藤が、ちょっと「ひねった言い方」をしたのも、見田のそうした「共感しあえる人たちの中だけで、楽しくやっていきたい」という、思想家としては少々「問題含みの性格」を、ハッキリと見抜いていたからではないだろうか。
この加藤との対話においては、「主役」の見田を肯定的に評価するための必要上『批判することと肯定することがあるとして、七割くらいは批判よりも肯定することのほうが意味があるし、また難しいことかもしれないですね。肯定するということは、批評として難しいですし、高度です。』と、加藤が「褒めることの美徳」という(きわめて常識的かつ耳障り良い)側面を強調していたとしても、だから言って、読者までが「私も、褒めるタイプです」などと良い子ぶって、慌てて「褒め」にまわったのでは、見田宗介=真木悠介という思想家についての正しい(客観的な)評価など、到底かなわないのではないだろうか。